約22世紀(2100年代)まで日本が経済地位をはじめ諸側面で新興国に追い抜かれ転落を続ける、というのが大よその見方として間違っていないだろうことはほぼ確定的なので、日本脱出を早期に図り租税回避地めぐりをしていた少数の人々が個人という単位では賢明だったのである。今からでも見習うしかない。日本や日本人全般の今後へ過度に期待する限り、予想は外れ、先ず確実に裏切られるだろう。勿論、個々の単位で優秀な傑物が出現する確率は1億人程というかなり高い人口比や、それなりの教育程度からいってまれにあるだろうが、全体には凋落の見込みしかない。それは社会が既にはっきり示している。「国家社会主義」的な自民党政治の枠組みが、日本とか日本人という全体単位で自分達を考えるという戦後体制を意味していた。この考えが古く使い物にならなくなっているのに自分は気づいていたので、個人主義と全体主義の中庸にある地域主義が有効ではないかという仮説に基づいて行動していた。
だが結果は、その地域主義も小型の自民党政治的な全体に回収されてしまう、ということだった。茨城県知事は自民党の飼い犬の様な人物に切り替えられてしまったし、そこでは個人の意見が全く通らないし、個々の県民は自民党権力や天皇権力の前で全く尊重されず犠牲を強いられる。正解は「個人主義」に基づいて行動していた人達にあった。国や地域に帰属意識をもつのは失敗の元だ。同じことは社畜と呼ばれる企業に帰属している人達にもいえる(内需が死にかけている日本企業の殆どに将来性がない)。頼れるのは自分と安全資産だけで、税による福祉に頼ると国に裏切られてしまう。
リバタリアニズムが正解だ、と知識人の大部分もまだ気づいていないと思う。トマ・ピケティが『21世紀の資本』で示した社民的潮流に程度あれ感化されているからだ。自分も与沢翼氏の様なリバタリアンをみた時、俄かにそれが正道と信じがたかった。ノルウェーの友人の暮らす社会がましではないのかと。社民的調整が立派に図られている国々、具体的には北欧諸国やフランスが民度の成熟した国のモデルなのは確かだが、日本の公的教育の質はそれに遥かに及ばず、今後も学ぶほど賢くないので22世紀までそこに見習う可能性は先ずないだろう。逆に格差拡大を続け目先のアメリカ追従に耽る筈だ。ジム・ロジャースのよう租税回避度の高い国に移民することが、日米の悟った個人にとって当然の生活様式になる筈だ。専らリバタリアンを阻害するどんな要因もないし、新興国で居住外国人の租税回避を禁じる法を通そうとすれば基本的に彼らを飯の種にしている国民から成る議会の反対にあうだろうからだ。一方、商才のない先進国の個人が税率や物価の低い新興国に移民することにも大きな利益がある。少なくとも新興国物価が先進国を上回るまでの期間、以前と同じ以上の生活程度を維持できるからだ。
結局、全体主義(愛国心)から地域主義(郷土愛や東京妄信など)、集団主義(学歴・企業崇拝など)を経て、個人主義へ速やかに移行するしかない。帰属集団が大きいほど矛盾や不合理に直面するものだから、解決不可能な他者の暗愚さに関わっている間に、人生自体が無駄になってしまう。藤原正彦『国家の品格』が流行した頃、自由至上主義(リバタリアニズム)が現実的に最善の選択肢だと気づいていた人は本当に利口だったのだ。逆にこの種の論客に扇動され、グローバリズムへの反命題として国家や保守主義に回帰しはじめた人々が大多数だったからこそ、日米英は道を間違えている。
リバタリアニズムを極めた超少数の大資本家、具体的には世界で数人が、事実上の王権を持つ様になるのが今後の世界展開ではないかと思う。既に個人資産が10兆近いアメリカの新成金は大抵の国家予算以上の額をもっているので国ごと買収できる筈だ。自分にみえるのはこの種の資本王権がふるわれる社会がしばらくの間、民主主義より優れたものとして世界を圧倒するだろうが、次第に初代王の死後、遺産相続者による血縁政治等の腐敗で最終的には大多数の人に犠牲を強いる結果になると予想されるので、22世紀以後には別の姿に展開していくとは思う。しかし21世紀(2000年代)の間は、リバタリアンら個人が国家予算以上の蓄財を図る、という流れは止まらず、しかも彼らの支配が絶対権力となって猛威を揮うだろう。だが衆愚政に陥っている先進国より、単独の超有能な商人が王政を執る新興国がより大きな成果を上げるのは明らかだから勢力図が逆転する。
世界で数人の大富豪による資本帝政が群雄割拠を続ける、というのが自分の見立てによる今後100年程の版図だ。自分がそこに参加することになるのは生きている時代だから仕方がない。どの経路で最も有利有徳な立場を取るかにありうる知性を振り向けねばならない。旧先進国の愛国心は時代遅れの遺物だ。