2019年2月4日

疑うこと

ツイッターをしばらく使ってみて分かった、インフルエンサービジネス、信者ビジネスの恐ろしさについて分析してみたい。
 実際に深めに献身して使ってみるまで、主に視聴専用ではわからなかったのだが、ツイッターというのは人気取りツイートでのフォロワー数上げをドラクエのレベル上げみたいに鼓舞するしくみになっていた。
 このフォロワー稼ぎというのは実に末恐ろしいもので、知的な意見とか正論とか、道義的な意見では基本的に全然稼げないらしい(因みに私はこういう勉強になる、感心するのを見たくているので、そういうのは少数意見で見つけづらいわけで、おおよそツイッターは肌に合わない)。
 じゃあ何で影響力をもってる人がいるかというと、主に誰か特定カテゴリーの集団か個人を正義面で公然といじめてるか、テレビ・YouTubeなどで芸能人の類か、凡そどっちかだ。
 テレビ芸人とかユーチューバーが低俗なのはいうまでも無いので、省く。問題はこの前者、何らかのカテゴリーに属する人々へ公然と集団イジメをしている人達が、ものすごくでかい面をしているという不可解で、吐き気がする現象の方だ。
 私はこう見えてツイッターを眺めてきた時間は、恐らくネット民の中でもとっても初期からみてるから非常に長いと自負まではしないけど、いえる。ツイッター史みたいなのも大体あたまに入ってる。それでも、最近の正義面集団イジメ系インフルエンサー業ってのは未知だった。
 具体的に名前をあげると問題が大きいので、だれがかは決していわないが、世間では認められていたり高い地位にあったり、あるいは日本人お得意の自称「普通」な保守的俗物みたいなのをひとくくりにして、無駄に群れて叩きまくる。異論や正論をいうと失礼だとかほざいたり、ブロックしてきたりする。
 その種の集団イジメ系インフルエンサーは、殆ど決まって自画自賛リツイートをくり返すのだが、エゴサーチによる自己宣伝を兼ね信者の承認欲求を満たしてやるという狡猾な意味を兼ねているようだ。ただ見ていて不快なのは間違いがない。しかもイエスマンばかり集まってくるから余計不気味だ。
 JRPGでいうとこういう集団イジメ系インフルエンサーって敵キャラそのもので、自己増殖してる小型のワルの敵グループって感じだ。とりまきの人達はその中心的教祖が誰かを標的にいじめだすと一気に沸き立つ。自動的な戦闘生成システムみたいになっている。
 大昔のツイッターは、引きこもりニートみたいな人が今の僕のフォロワー数よりもっと少ない10とか20とかの人が読むともなくよんでる日常のまさに「つぶやき」だったから、僕は自分のブログでツイッターを「つぶやき」って意訳して書いた。そしたらこれが日本語化してしまった。本当はさえずりなんだが。
 じゃあなんでそんな集団イジメ自動生成システムが実装される様になってきてしまっているかというと、ツイッターが惹きつけている人達がもともと寂しい人達なのはいうまでもなく、無意味に教祖へ同調することを新種の偶像崇拝にしてる人がツイッター利用者内でみるみるふえてるのかなと思う。
 教祖ビジネスの蔓延。天皇もそうだから今更いうまでもない。神なき時代の偶像が新たな信仰になっている。ツイッターは明らかにその媒介となっている。後真実がインフルエンサー教祖の預言におきかわったのだろう。
 もはや真実の精査を科学的批判精神に基づいて行う知能を身に着けるのは高コストすぎ、大抵の愚者は大勢の人々が集まっている人気者の御託を鵜呑みにすることで、情報の氾濫に対処することにしたらしい。
 インフルエンサー新興宗教が行き着く果ては、教祖自身の堕落と、信者らの狂信であろう。教祖が道を踏み誤ってもそれを指摘する者は、信者サロンからすぐに排除されてしまう。天皇制ファシズムがそうであったのと同じだ。
 私にいえるのは、今日のツイッター、いや他のSNSのどれもがこの種の宗教の場となってきている以上、私自身はそういう気味の悪い狂乱の時代からは距離を置きたい、ということだ。勿論私が教祖となってカネ儲けできたら彼らの一員になれるんだろうが、そこまで自分を馬鹿にできないし、人気取りも好きでない。なにより将来性がまずすぎる。まあインフルエンサー業者の殆どは、天皇や麻原彰晃と同じ末路となるであろう。
 彼ら偶像崇拝の徒を反面教師にするなら、先ず批評的・批判的精神というものを自己自身にしつけることが一番重要だ、となる。いいかえれば全てを疑うこと。あらゆる権威を疑い、自明の前提を認めないこと。科学教についてさえこれはいえる。
 最初、もしくは初期の時点で、「ああこれ、新興宗教と一緒だ」と気づいて、偶像化だか偶像崇拝の階段を大勢の信者らの流れに逆らって下りていく必要がある。気づくのが遅れるほど財布からカネが抜き取られ、教祖の宣伝道具にされ、挙句は人生を狂わされる、はずだ。
 聖者は最高徳の者なのだから、もしごく少数、信者ビジネスのどこかにそういう人がまじっていたとしても、カネをまきあげるどころかむしろ何か立派な教訓を一方的に授けてくれるだけなのではないだろうか。
 イエス、ムハンムド、ブッダ、孔子などは代表的な聖者の列に加えられている。確かにこの教祖達も信者ビジネスじみた面はあった様に思う。むしろこの人達は詩人であって、何かありがたい哲学を美しい言葉で集まった人々に投げかけるのだが、感激のあまり信者が勝手に貢ぎだしたのだろう。
 聖者が模範的な人物だとしたら、インフルエンサー業の原点が、世界的な宗教の創始者たちだったのかもしれない。宗教一般が愚か者に思考の省略装置をインストールすることだとすると、インターネットを介し小型の教祖らも何かの教義を信者らに植えつけているのだろう。
 ここで私達の時代の代表的啓蒙家の一人であるリチャード・ドーキンス氏を思い出さないわけにはいかない。まあ彼も科学信者だといえるかもしれないが、少なくとも宗教を悪し様に批判することにかけて彼の右に出る者はそういない。
 インフルエンサー業もやはり徹底的にやっつけるべきではないのか。そして大いなる矛盾として、その宗教的精神(信じること)の批判者自身が、またもツイッター上での偶像なりインフルエンサーとなってしまうという諧謔について、彼にまさる者もまたいない。
 結論をいう。私はツイッターの信者ビジネス、インフルエンサー業というのは、とっても胡散臭いと感じた。特に自画自賛リツイートが傍ら痛い。金儲け自慢系も、嫉妬煽ってどうすんの? と見る。低俗なのは近づけない。で、科学信者系インフルエンサーもこれまたたちが悪い。
 なんでかというと、自然科学を基地に他思想を宗教と決めつけ腐すってのは、科学主義・科学教といわれる自然科学の方法論を他分野にも適用できると思い込んでるだけの教義だからだ。疑うこと。これにまさる態度はない。