二流の芸術家は作品のみならずその存在ごと我々をがっかりさせるが、一流以上の芸術家は我々を鼓舞し、勇気づけてくれる。その作品は心から我々を励まし、深く納得させ、心からの共感と共に何者も恐れることはないとやる気を与える。なぜこの差が生まれるかは分からないが、確かに両者は違う。
ところでゲルハルト・リヒターが『写真論/絵画論』で言っている通り、当代のサロン作家は二流の芸術家と相場が決まっているが、そういう人達の作品や存在の方が同時代に俗受けしているのは現状も同じだ。更に商業的大衆芸術の分野ではこの傾向がますます激しい。よって結局、二流の芸術家とは中途半端に大衆迎合的な、中間芸術の人達なのだ、といえる。
我々が勇気を与えられる仕事は、常に一流のもので、それは独創的な前衛性の産物である。いわば最初のペンギンとなった人が名誉を与えられる。このことについて分かればわかるほど、一流以上の芸術家らが同時代で冷遇されてきた理由を実感するだろう。革新理論の中でスティーブ・ジョブズが模範として引用しようとした芸術家なるものは、クレメント・グリーンバーグも同じことを指摘していた、一流以上の芸術家らの常に進歩的なこの姿勢であるといえる。独創は模倣に逆らうと岡倉天心が『日本美術史』で述べていた様に思うが、真の前衛性は独創に由来している。したがって中間芸術や大衆芸術をその様式の要素に含めようという村上隆のスーパーフラット理論は、やはり折衷的なものに過ぎなかった。それはポストモダン的模倣性の一変種だったのだ。同じことはリヒターの抽象画が抽象表現主義やアンフォルメルの模倣だったことにもあてはまる。落書きの低俗さを高尚な芸術の一種として扱おうとしたバンクシーは上記の理由で本来の前衛ではなかった。このため我々は彼がゲリラ的活動で公共美術の再解釈をしたり、美術館制度の批評者であったときにはかなりの前衛性を認めていたが、単なる美術市場の一部に話題を呼ぶ低俗な代物を販売する様になった時点で大衆商業芸術の漫画家と変わらなくなってしまったと感じ、失望した。既にバンクシーを一流の芸術家と認められる根拠は、多分ないだろう。彼の『少女と風船』(『愛はゴミ箱の中に』)は、フォンタナによる裁断キャンバスのキッチュな模倣でしかないからだ。それがバンクシーなりの高文脈な美術市場への皮肉だとしても。