会田誠さんの絵とか作品は、下劣下品を極めようみたいなのが多いけど、問題はその様な表現が人々にどんな問題を提起するか(メタ認知的な趣味論)なのであり、単に下劣下品だからアウトというのはエログロナンセンス的なものとかポルノとかオタク文化とかヌード画とかの大部分まで全部ダメになる。なんで会田誠がポルノじみた絵(しばしば児童ポルノとの境界例)を出すとだめなのに猥褻物陳列罪だの頒布罪だの公然猥褻罪だのに該当するリアルアダルト東京文化(性風俗)だの、変態オタク文物は放置されてるの? となる。その種の境界侵犯の問題提起が会田誠さんの真骨頂なわけで、冷静にみるべき。
因みに僕個人は下品なのは全部嫌いだから公共空間から裸像も全部撤去してほしいし、猥褻物は全部逮捕すべきと思うけど!
「猥褻性」の定義は時代や国民によってだいぶ変化が激しい概念だから、一体どこからどこまでが猥褻で他がそうでないのかについては、丁寧に議論を重ね、冷静に定義を決めていく過程が必要で、そのためにはいろんな例があった方がいいのでがんがんその下品といわれるだろう例を出す人もいた方がいい。チャタレイ事件とか東京都漫画規制とかあったよう話は絵だけでなく小説とかゲームとかアニメとかポルノ含むアイドルとかの映像文化にも及ぶし、会田誠が猥褻だというならもっと公共の議論を呼ぶよう騒ぎまくって、色んな日本文化の中の猥褻物と思える物を責めまくろう。そしたらもっとよい文化になる。なお、私は宮崎駿のアニメ映画作品『風立ちぬ』も18禁相当の立派な猥褻物だと思いますよ! あんなのをテレビで流していいのか。子供と家族がお茶の間で凍りつくに違いないのに。
会田誠が駄目なら某ポルノ女優を講義に招いた某学長補佐の方がよほど反社会的な猥褻物頒布・陳列罪の煽りではないの? 会田誠はちゃんと美術のフォーマットの中で、かなりの程度アカデミックな文法を利用して猥褻物の定義を問い直す作業をしてきたみたいな面もないわけじゃないでしょう?
ま、本質的には古代ギリシアで神々が人身をもつという人格神の宗教が普通で、当地の気候が明朗な上に古代の時点なので裸体に近い像が神殿を飾るためなどに沢山つくられて、その影響を受けた西洋で猥褻性のある裸像や裸体画が伝統になった。で日本も江戸町人文化の中で下層階級の中で性売買が発達した影響で、東京人は猥褻性の高い下品な文物を好む。その両方の延長上に、会田誠は猥褻性の高い表現を好んで用いてきたわけだけど、講義が下品すぎて学校側が訴えられた。東京人が下品だなんて江戸時代の春画からなんら変わっていなくて、むしろ下品さ、特に財力を背景に性売買の直接性を誇るのが粋だだの萌えだだのといわれてきたのだから、今に始まった話ではないわけだ? 京都造形大は『源氏物語』が歴たる猥褻物だということについても冷静に自己批判すべきだと思う。
勿論、自分は下品さを正当化しているわけでも容認しているわけでもなく、東京や京都が下品な連中だなと思っていつも不愉快だし、はっきりいえばソドムとゴモラみたいなもんだからいずれ神が天罰下して滅ぼすだろうとずっと祈っているくらいだけど、今回もその様な都会の下品な人達のただの自殺点だよ。京都造形大の人らは京都出身の綿矢りさの小説、未成年者が風俗チャットという違法行為をする『インストール』だの、女性アイドルの淫行を主な筋とする猥褻小説としかいえない『夢を与える』だの、京都人ぶってる村上春樹の『ノルウェイの森』だのを容認してきたわけでしょ? ノルウェイの森は源氏物語の延長上にあるともいえる単なる乱交の話だし、何一つとして上品な点はないと思うけど。そして芸妓の文化だって元をたどれば程度こそあれただの売春なんだから、会田誠を一々責め立てるより京都自体の猥褻的と呼べる文化が世にどんな悪疫をもたらしてきたか猛省した方がいい。
会田誠が猥褻だなんていまさら言うことでもないわけで、「猥褻でろくでもない文化もあるんですね、私は嫌いですけど。近づきたくもない」「こういう猥褻的な文物を公然と賞賛してこれた日本文化は、平安期の京都もそうだけど極めて下品な世界だったのだから、変えていかなくちゃ」とか思うべきだ。
日本文化の一部にはっきりした猥褻性がある、というのは人類全体のかなりの日本学者とか日本ファンの人らはとっくに知ってることだと思うけど、勿論そうでない部分もある。が、上品な部類の高文化は無視され、サブカル勢だの中間芸術勢だのに押され大衆商業下品文物に窒息死させられつつある。今後の課題としては、国内外の一般大衆がどれだけ下品であれ、その人らが都会のサブカル商品文化に大金を貢いでいようが、どれだけ下衆な名誉やら賞賛を与えていようが、完全に無視し、世界一上品な文化といえば私の作っている作品ですよ、私が世界一高貴な文化人ですよ、といえる為事を残すことです。
まあ上品さを擬態する、という上流ごっこ文化が行き過ぎると、皇族にもまだ残ってると思うが、税金独占して大金持ちなのにわざと被災者みたいな格好で貧民のふりして撮影会したり、いけず文化みたいな卑しい意図の婉曲表現を正当化するみたいな勘違いした方向に進むし、真に上品というのも難しい話だ。この訴えた人は会田誠を死ぬほど下品と感じて苦痛すぎたんだろうけど、品性の(仏教語ではない意味で)定義は主観的だから、この訴えた人も別の世界ではなんて下品なんだろうと恐らく思われてるのかもしれないし、下品なことを非難するというのもそう簡単な話ではないな。冷静に見なければいけない。
品性の定義を欲望を直接的に表現するのを忌む程度だとすると、性とか食とかの生理的欲求に漸近する表現であるほど下品となるわけだが、これでいうと例えばエロ同人誌とかインスタ蠅勢の食事アップとかはまさに下品となる。会田は美術の枠中で変態性欲的な性表現を直接する傾向だから下品といわれる。ではなぜポルノを仕事にしている様な人々、いわゆる性産業の従事者らを非難しないのかというと、訴えた個人が間違った場所に居合わせたからだ、となる。そして真の問題は、寧ろ性産業とか性表現を直接している文物の方にあることになる。同じことは性以外の欲望についてもいえるから、食等にもあたる。こんな美味しい食事をしました、これからします等と画像をネットにあげるのも、「下品だ」という意味では完全にあてはまるのだし、餓死しつつある人とか貧しい人にとって不快でしかないだろう。
下品な表現は誰かを傷つける。それは欲望が本能に近いほど、本質的に不道徳なものだからなのだろう。本能を公然と直接表現すると多くの場合、誰かを傷つけ、誰かからの反発を買い、しかも時には逮捕さえされる、公害になるというのがこの問題の根源にある現象で、文明人たる者は欲望の公的表現には十分注意しなければいけない。本能は利己的なものなので、文明社会では敵意をもつこと自体が禁忌なのだ。
ニュースをよく読んだら、京都造形大側が会田誠氏に猥談させまくって(他にも別の人の猥褻的な写真の講義があり)、或る女性の受講者が京都造形大を訴えた、という内容だった。これは十分あり得る話だ。『源氏物語』を全国の高校で文科省指定で教えてることをいつかどこかの高校生が絶対訴えると思う。高校生は何も知らないからいきなり教わって平気で読んでしまうけど、ちゃんと古語を読める程度の学力がついてから真面目に内容をよみとれたら、なんでこんな乱交小説を学校で教えてるんだ馬鹿なのか? としか言いようがない内容すぎて、会田誠氏の問題をはるかに超えているからな。『源氏物語』の本質は不道徳の礼賛による退廃趣味だというのが本居宣長以来のもののあわれ論なんだし、しかもこの物語を日本文学研究者らは総意として最高傑作扱いしてきたんだから、日本の教育界はこの問題をどう考えていくつもりなんだろう。退廃主義を子供に教え込む目的はなんなのか。『源氏物語』を規範とするもののあわれの論理は、中国の道徳的世界に対して日本は道徳を重視しなくてよく、善悪など無視した退廃に耽っても生まれつき性善なのですべてはうまくいく、とかいう、単なる人種差別的な自民族中心主義だし、完全に時代遅れな上にそもそもが退廃趣味でしかない。京都造形大は『源氏物語』の退廃主義を生み出した地元の学校でもあるから、恐らく性について道徳的に語ることそのものを禁忌にしている気風なのではないだろうか? 道徳性や善悪を無視し、性的退廃に耽るのを正当化した本居宣長や紫式部らにつながる倫理規範の欠如が、事の奥に控える問題ではないか。皇族(皇太子)が不倫や乱交、強姦、児童性愛など退廃的な性生活に耽る物語が『源氏物語』で、平安朝の絶対君主制の中で数多の女性が蹂躙され、皇族らの性暴力の犠牲になり、その中で或る女が自殺未遂し何とか一命をとりとめ出家するもなおも皇族に襲われかけるところで地獄の様な話が終わっている。『源氏物語』が皇族による犯罪を美化し、皇族の家庭教師としての紫式部の地位を確立する為に書かれたのか、まだ性倫理が芽生えていなかった中世京都人の中でわずかなりとも現実の皇族による有様を写し、内部通報する目的で書き残されたのかはよくわからないが、現代の目から見ても会田誠氏より残虐だ。
京都造形大による美術教育(そもそも芸術は天才の為す技なので教えられないとカントは述べているのだが)の世界でももののあわれ論が援用され、性倫理を無視することが伝統的な京都文化の態度、とその講師陣の中で考えられている可能性は十分あると思う。類似の態度は文科省中にも国学を通じてあるが。