自集団ひいきの妄想は、殆ど致命的なものだ。この思い込みを極力抜きにものを見て考える事は少なくとも自己の利害を判断するのに必要である。
群れの為に行うことが致命傷を負う自己犠牲であっても、その群れはあなたを少しも鑑みない。だから信仰の為に死ぬ者は、次世代の中にたまたま彼らの精神を学ぶ人が現れるのを待たねばならず、それ自体、先ず期待できない。
道徳的義務が利他性を命じるとして、それは普遍的な見地からであるべきで、しかもできるだけ自害的であってはならない。集団や所属妄想がこの基本を見失わせる。この点で国も、自治体も有害だ。我々は善の為には、全く個人であるべきなのだ。