2019年1月9日

涅槃と資本主義の輪廻

 ゴータマが涅槃(nirvana、無欲)という言葉で説こうとしていた状態のうち、無余涅槃は要するに自然死以後である。資本経済の時代は、商行為による欲望の開発で俗人の諸煩悩を順次満たそうとする。需給の一致がこの時代の大義名分なのだが、利己の極度に功利主義的な利他の最大化が自己満足の最終段階として現れてくる。利他性自体が目的でなく、自己満足が目的ならそれは偽善なので、自己満足の究極状態に純粋な利他性が生じる。カントのいうところの義務。だからマルクスの説いた社会発展の三段階論、つまり、資本主義、社会主義、共産主義という進化は、少なくとも公民一般の利他性が増大するという意味では真実なのだろう。
 その個人の道徳性、悟り度が低いほど空に至る試行錯誤としての煩悩も多いので、GDPは三面等価の原則により増長する。しかし幸福が社会生活で本来の目的であるから、そしてその質は無欲に極まるのだから、少なくとも有余涅槃として少欲な人々が多いほど、いわば低GDPな程その地域集団は高徳なのである。死を望む人が多いということは、決して社会病理ではない。単にその人の煩悩が吹き消えている、libidoが低減しているのだから、元々その状態が生の最終段階なのだ。
 鬱病という精神医学上の定義は、ある個人が商人として天皇への納税(その他、王族の存在しない海外あっては資本家への貢納)をしつけられた国民奴隷制に適合しない、という事を問題視しているのだが、仏教の立場からみれば、これらは全て迷妄の結果なのだ。勿論、脳内でドーパミン不足など動機づけの欠如から無欲さを引き起こしている身体現象と捉える事、それが日常生活に対して支障をきたす事に問題がある、という医学的観点は一定以上の合理性がある。しかしこのウツと見なされている事象の中には、全体の一部にせよ、一切皆空を捉え、それ以上何も求めるべき事がないという涅槃の悟りもあるのだろう。同じ事は日本でNEETや引き篭もりに対する差別にもいえる。彼らを非難する商人や、自らへの納税の義務を科す皇族らは、仏教的な意味で悟った、自然死のみを求める乞食的個人を搾取や奴隷生活の延長に役立たないものとして攻撃しているのだが、輪廻する欲望の再開発に取り憑かれ真に社会病理を示しているのは彼ら俗人の方なのだ。