2018年3月9日

自由と隷属

俗人達の現実を見た者は、世間や大衆と言われている衆愚を心から軽蔑するに至る。カントは一般大衆の現実を知らなかったに相違ない。『エミール』を読んだからといって、俗人が卑賎でなくならない訳がない。
 諸聖人の中でゴータマが最も、大衆というものの真相を掴んでいたと思われる。孔子は小人と呼び、ゴータマは愚者とか卑しい人、悪人という呼び方でこの衆愚を呼び慣らしていたが、どの時代でも一般大衆と呼ばれている最大多数の人々は、極めて下賎、極めて悪質、極めて暗愚で、関わる限り害毒しかない事は全く間違いない。諸聖人はこの厳然たる事実を必ずしも巧みにいいあてていない。大衆が侮蔑すべき悪徳の塊である、という事実を、アガペーの幻想で覆い隠してしまっている者、例えばイエスの様な人物もいる。実際イエスはこの有害な幻想の為、悪辣極まりない衆愚の発狂によって犠牲にされた。彼の弟子らも彼を裏切り、パウロの様な後世の人物も、冤罪による死刑という最悪の事態を人類救済という全く正反対な妄想で不自然に言い訳する事しかできなかった。事実は単に大衆一般というものがどう恐ろしく邪悪で猥雑、極悪非道、俗悪極まりないかというどの時代でも不動の真実を示すだけである。裏切者の会計係としてのイスカリオテのユダから見て、罪深い女とされたマグダラのマリアに高価な香油を注がれたイエスが堕落した教祖に見えたのかもしれないが、このユダという罪悪感のため自殺した男は、他のなんの罪も感じなかった一般大衆に比べてずっとましな存在である。
 私は一般大衆でない人々、例えば皇族や政治家、大金持ちや知識人が卑しくないと言うつもりはない。寧ろそれらの人々の卑賎さは大衆一般より程度が酷い事の方が多い。しかしこの事が俗人の俗物性、これらの上流ぶった人々を模倣してますます卑俗になる鼓舞であるからには、両者の恥は共に拭えない。
 カント的な人格主義が害他的な俗衆に対面した時に最悪の結果を伴うという現実について、彼は何の言い訳もできない。学園的なくらしをしていた彼には、学生でない衆愚というものに触れる機会がなかったので、ある種の理想をいだいていたに過ぎないのだ。
 もし社交に意味があるなら、ふれあう相手が自らより何らかの点で優れている場合だけだが、そうである限りより優れた点が多い人ほど内向的になり、家に引きこもっている方がよほど良いとなっていくのも当然である。引きこもりを誹謗したり無理やり外に引っ張り出そうと考える出づっぱり達は紛れなく俗悪の極みにある衆愚であって、私の生きていた平成時代にあってはこれらの俗衆が内向を精神病扱いして差別し、その迫害ぶりはとんでもないものだった。逆に卑賎の底が抜けた逮捕未然の犯罪者らがそれら衆愚の間では称賛され重宝されていたが、というのも人より劣った点が多ければ多いほど、その人が社交から学ぶ点が多いからなのである。ミルが自伝で社交界を害毒しかないので知的な人物はそこを断固として避けるべきと書いているが、ゴータマが卑しい者の言葉を見聞きするなといい、孔子と共に己に如かざる者を友とするなというこの忠告は、人生で最も役立つ内容が込められている。人生の苦痛、不幸の殆ど全てが、自分より良識に劣った人間から向けられる様々な害悪によるのである。嘗ての貴族が世間知らずほど育ちがいいとみなした事は、ほぼ真理そのものと言える。このうぶであるがゆえに心底善良な人物が大衆一般と呼ばれる悪魔的衆愚の間でうまく生きていける可能性が皆無なのも事実だが。
 民主主義と訳されている多数政への狂信は、大衆一般の凄まじい衆愚性をまざまざと見た者の間では完全に晴れてしまう。多数政が公共を目的に為されるときを共和政republic、私利を目的に為されるときを民衆政democracyまたは衆愚政mobocracyというのであり、アメリカ人の間でこのdemocracyという語は多数者支配としての意味そのものに使われる様になった。根本からいって、多数政が常に善である根拠は全くなく、アリストテレス自身も良識的中流が最多の場合に限定して多数政の長所を認めているに過ぎず、今日の大衆一般は教養を侮蔑する衆愚に他ならないので、当然ながらdemocracyの訳語である民主主義も極めてたちの最悪の結果をもたらすに過ぎない。極悪人が群衆化した結果は単独者が堕落した独裁政より遥かに悪いだろうから、衆愚政である平成時代が史上最も悪い社会だったとしても、それは制度の退廃として必然だったというべきだ。平成末期において、天皇、首相(安倍晋三)、副総理(麻生太郎)が血縁のある寡頭者として共に違憲政治を行い恥じず、自民党一党独裁が進み、この党に恫喝された都内マスコミや、ネット右翼から多かれ少なかれ洗脳された衆愚はこの蛮政を狂信していた。日本国が亡びる最中に見た景色が地獄に類していたとしても、それは滅亡する国の内部がどの様になっていたのかという一つの貴重な経験だろう。悪い偶然が重なって年少者はゆとり教育という内容が簡易化され、学習時間を削減された公教育を受けていた事、インターネット勃興期にあたり悪意ある匿名掲示板2chとそのまとめサイトを通じて、たちの悪い俗臭情報を鵜呑みにする様に育ったこと、IT倫理を身に着けていなかった団塊ジュニアらから下の世代は匿名での大変な差別や迫害、悪意ある誹謗、名誉毀損、侮辱等ありとあらゆる有害情報のシャワーを浴びた事が挙げられる。即ち平成時代の年少者は公共を理解しないどころか、バブル世代の様に拝金と利己を図る事が称賛されると勘違いし、愚かさのあまり都内のメディアやネット衆愚に洗脳されきって差別観や山ほどの偏見を身に着けた。結果として、差別主義的逐円衆愚が量産され、この人々は想像を超えた悪意で、匿名であれ実名であれ、日々恐ろしいばかりの悪業の山を積み重ねていた。天皇も資本家も公害を含む利己をのみ追いかけ同然に堕落し、平成日本はさも自殺のみが救いの有様だったし、実際に善良な人ほど早くに自殺していったし、死を救いだと考えていた。
 大衆一般を信じるとか、期待するといった事は、愚かさの証拠に他ならない。この事は、巨視的には皇族含めいかなる王侯貴族も、資本家も、全ての知識人も含み、人類一般が邪悪で、全く信じるに足らないどころか反例にしかならないほど愚劣であるという単なる人間憎悪に繋がる認識である。イエスの末路を見ればわかる様、博愛がもたらすのは自滅である。邪悪な存在である人類へ返報を望めば、恩を仇で返すのが火を見るよりも明らかではないか。実際、経営者や資本家はこの人類が邪悪であるという根本法則を利用し、搾取という狡猾な手段で他人を奴隷化している。少なくとも日本の労働者階級、サラリーマンやOLと自称する商人一般は愚かさのあまり、奴隷化され酷使され時に過労死する事を喜び、自ら反資本主義的な諸思想を侮蔑する。都心で満員電車ですし詰めになり苦痛に満ちた俗塵生活を自慢し、余裕をもって暮らしている賢明な田舎者やストレスなく自由である無業の引きこもりを劣っているかの様に侮辱して、奴隷の不幸を合理化する。ギリシア自由市民や公家武家といった貴族階級が、自由人を差別する平成日本の商業労働者という奴隷衆愚を見たら、その愚劣さを嘲笑するだろう。私は彼ら衆愚の卑しさを腐るほど見たので、完全に貴族の意見に同意できる。自由を汚辱し、隷属の道を選んだ衆愚、日本人大衆は奴隷に他ならず、主人である自由人の都合で当然の様に破滅するだろうが、それは自業自得というべきだ。この国で公共のため為事すれば、天皇を含む衆愚から犠牲になるのは必定だから、誰も他人の為を図る事はなくなった。実際にそうすれば間違いなく破滅する状態で、現実に献身的な人から先に汚名を着せられ、冤罪を受けて監獄に入れられ、大衆の悪意と愚かさによって排除された。滅亡のみが正義である様な国、日本国は、衆愚もろとも一刻も早く滅ぼし去る事こそ善というべきであり、遠からず実際にそうなるだろう。天皇や首相が最高法規を守らない国で、一体どこの誰が法を尊重するだろう。山口県や奈良県からはるばる出てきた象徴だとか、教祖、政治家、或いは現人神を自称する怪しげな人々が東京都と改称した武蔵国で蛮行の限りを尽くしていたのは確かだが、未来の人類の殆どは彼らの愚かさを鑑みたりしないだろう。実際、同時代から見ても、東京都民やその愚劣さを崇めていた蛮戎達の醜さは吐き気を催すものだったし、これらの人々が反省に役立つとすれば、人間は一か所に集まれば集まるほど集団心理や過度の抑圧で邪悪になるという点だろう。旧約聖書の神が、世界中に人類を散らばらせたのは、記述した人々が過去の過密都市の亡びを見てきた経験則によるのだろうが、真理というべきだ。
 自由を蔑んだ人達は自己を奴隷化し、不幸と破滅を喜んで買った。衆愚になって大都会に密集し、ありとあらゆる悪業を尽くしていた。慈善はこれら大衆を哀れめと命ずるが、事態を詳細に見れば、完全に因果応報でしかない。大衆一般が想定される範囲を超えて最悪の存在である事を、古人ははっきり教えてくれなかった。アメリカかぶれの御用学者で政商の竹中平蔵が日本において新自由主義による格差社会化を小泉純一郎以後の麻生、安倍内閣を通じた自民党政治で進め、己はパソナグループという非正規雇用の人材派遣会社でぼろ儲けした為、中流は没落した。一億総下流化が一般大衆の衆愚化を推し進めた面はあるにせよ、その経過で見られたのは、大衆自身の意思による悪業である。インターネット上の2chやアメーバピグ、ツイッター等のSNSで、匿名で想像を超えた悪行三昧をしていた日本人大衆は、自らの悪業生活の故に堕落し、破滅していったのだ。それを社会の所為にする事もできないし、竹中一派の様な政商や、日本操縦者といったアメリカ側の知日派へ責任転嫁もできない。ゆとり世代は自堕落の末に若害化し、安倍晋三という独裁者への狂信によってますます己の隷属状態を強化していった。これについても他人が強要したものでは全然なく、若害自身の意思、殆ど悪意にしか見えない思考と行動の自己選択による自害なのである。これらの人々の頽廃は、自由を軽蔑するという意味不明で致命的な失敗から生まれていたのであり、なぜその様な退行が自ら選択されていったのかについて、賢明な社会学や、文化人類学の分析に待つところだが、自分が分析する限り、日本人衆愚のセロトニン・トランスポーター不足脳の遺伝子に原因があったのではないだろうか。そのため感じる過度の不安が群衆化を自己目的化させ、安倍晋三という独裁者を生み出し、自民党に独裁させ、天皇にさえ違憲立法を行わせ、当時の多数派であった労働階級や大都市住民であった東京都民の労働信仰を狂信させ、自己奴隷化や自壊を進めたのではないだろうか。不安定な環境では進んで集団自殺を図る日本人衆愚の脳は、遺伝子そのものに問題があったのである。しかし、この愚かしさは単に平成日本人達のみにみられる傾向というより、人類一般の持っている愚昧さが集団極性化したものである様に思われる。