2018年2月25日

全徳について

今日の物理学者、自然科学原理主義者、形而下学の専門家らの一部が、形而上学や哲学の問題をその認識ごと侮蔑し軽んじている時、それらの人々は単に無知かつ浅学であり、自らの狭い専門領域である自然の一部または全体の分析が、如何に人間界に応用されるべきか、という能動的見解をもっていない。全て科学、知識とは、既に存在している物事の後追い的解析に過ぎず、未来予想の類は複雑系に対して究極のところ無力である。他方で、哲学の対象は全知識を含み、しかも道徳や倫理といわれる人や知的生命の能動性を、自然にあるとは限らない上位概念の中で定義していくものである。形而上学、後物理学は哲学とも呼ばれ、宗教や芸術、文化の一切を含む。そしてこの言葉で表される活動は、それが言語で示される場合、全学識の最上位にある最高の抽象度をもつ議論だから、単に物理学や、社会学といった一定の分野の全てを含みつつそれらを超えた知能を要する。この為、物理学者や特定の自然科学原理主義者が倫理や道徳の無為を主張しても、それらの人々はいかに生きるべきか、人類の存在意義は、或いはこの宇宙の目的は、等の形而上的な見識についても優れているとは限らないし、もしそれらの人々が単に専門家として知られているに過ぎなければ、当然のことながら哲学において傑出した才能がない事になる。部分において優れているに過ぎないものは、全体に対しては道具や手段である。
 一般に、我々は哲学が道徳や倫理という認識の段階についての抽象的議論であると理解している。よって、哲学者として優れた人々は、この世界観や目的自体についての、高度な抽象概念を最も有効な形で定義した事で知られている。単に社会を含む物理的宇宙の上にある概念として、哲学的概念は言語自体である。もし言語を仲介しない哲学が例えば行動を媒介した伝達として行われている時、これは非言語的道徳と呼べる。記号を含む何らかの言語または数学的言語を用いないまま、道徳性が見られるという事も、骨を要する技術、ある種の動物や、脳の言語野に損傷のある道徳的な人物、或いは現生人類とは別の生命等を想定すれば当然あり得る。よってこの哲学的概念というものは、言語以外によっても言語によってとほぼ同様に表現、再現、伝達、伝承され得る。広義では、何らかの道徳の表現や伝達を目的する、音や色彩、形態による芸術表現、或いは何らかの競技、儀式それ自体、そして儀式を含む宗教も、哲学的活動の一部であると定義されよう。究極のところ、自然知や社会知はそれらの上位にある哲学の部分的理解に過ぎず、それぞれ哲学の為の道具である。では哲学自体の目的は何か。目的論において考えられてきたよう、その定義は諸時代の先人らから様々に与えられてきたとはいえ、何らかの知恵の友愛を指す言葉が哲学の原義である以上、道徳や倫理という言葉で説明される或る秩序が最上位の目的そのものなのであろう。英語においてはmoralとethicと表されるこれらの概念は、前者が習慣やmannerを意味するラテン語mos、後者が癖を意味するギリシア語ethosに由来し、より古くから用いられたのはエトスの側である。漢字の道徳は老子の用いた一切の対立を持ち上げた究極性を意味する概念である道を含み、徳は白川字学に基づけば行路を見通す心的能力を意味する。倫理は同様に白川字学に則れば、人のみちを意味する倫、玉を磨く里を意味する理から成っている。総じて、モラルかエシックの和製漢訳語として道徳と倫理が当てられてきたが、老子の概念を含む道徳の文字側が、究極性を見通す心的能力という意味を取る為、伝えるべき内容により近いといえる。ここでいうethosや道徳とは、哲学の目的物であり、探究対象だが、より形而下学的な言い方を用いて簡略化すれば、未来予想の知能であるという事ができる。即ち予知能力である。
 この予知が単に自然と社会の世界一切を含み何らかの確率性や偶有性、不確実さ、運などの比較を含んで尚ほかより一層正しい場合、それは道徳的であるが、我々はこのethosに慈悲や救済といった利他性をも期待している。複雑系に対し究極で無力な予想を、少なくとも全徳は倫理的業において、全知は物理的業において完全にこなすが、知識や道徳は部分的あるいは不完全ながら或る程度こなすものである。他方、全徳、つまり全能的予知が、同時に最も慈悲深く究極のagapeを意味しているであろうと、我々の良識は苦難に遭っている全生命への救いの希望を儚くも全徳願望へ仮託しようとする。考えてみれば分かる事だが、人道や倫理が或る発展経路を辿って利他性を完成させるであろう、という予想、そして勧善懲悪をも善悪の業を経て完遂させるであろう、という観測は、或る癖に他ならない。即ち我々の良心の腑に落ちる結末を、何者かの因業は結果するであろう、という倫理的業の型の認識は、物理的業としての因果法則を含むにせよ、いわゆる現生人類が過去に広まった主要宗教を通じてethos化し癖をつけたものである。全ての行動傾向という全体集合の中で利己と害他を悪行という共通部分をもつそれぞれ別の集合と考えた時、或る悪行が自滅か他者からの復讐によって悪果をもってくる、と認識する型がそれぞれ個別の行動傾向についてあるなら、この善悪の判断基準がいわゆるethosの延長上にあるethicである。しばしば、エシックは誤解や極端な解釈という歪みによって修正されたり、逆にますます不条理化したりする。つまりこの判断の癖の束としてのエシックは、文化人類学が各集団において異なるエトスを見出し得るよう、個別具体的なものである。他方、道徳性の究極形としての全徳は、この個別具体的な癖や偏向、多様性を包含しつつ超えている。つまり、道徳という語義においては完全にあらわされてはいないにせよ、全徳は倫理やethic、ethosの上位概念である。Moralもその語源たるラテン語mosが習慣やマナーといった個別具体的な慣行を意味していたし、倫理という言葉は個々の立場によって異なる倫理をも意味できるので、狭義では究極性の老子的定義である道を含む道徳が、より全徳を暗示させる一般的用義である。対して、道徳がこれらの用義法を踏襲せず使われ、或る用い方において個別具体的な慣行を意味してしまう場合、全徳という諸形而上学的認識の最上位概念を使えば、普遍抽象的道徳性との混同を避けられる。そして、我々が全徳に仮託したがる救いは、それが普遍抽象的である限りにおいては、全知全能の上位者として永遠未達の仮称としての全徳の認識においてはいうまでもなく、一定の道徳性においても十分に叶うだろう。有無の上位概念としての空は、有の物理宇宙における一切が、道徳的見地から見ても虚構であると知らせる。いいかえれば、有為転変は無余涅槃としての悟りから見れば単なる空転に過ぎず、動物における生物反応の必然的帰結としての繁殖が諸々の快苦を欲や体感を通じて仮目的視されている限り、死による意識の消滅によって救いという快への期待のみならず現にある苦難も無為と化す。拷問や過酷な運命、苦痛への過敏性、抑圧的環境における生存、鬱的性格遺伝子の傾向などによってできるだけ永続的な快への状況転換を求める人々のうち、宗教的概念として全業の清算たる最後の審判や何らかの超越的存在による神的慈悲の適用で救いを定義する事は、不満や鬱屈を公徳に還元したがる為に、少なくとも有害な刹那的快楽に耽って自己中毒化するより増しとはいえ、無欲の習慣化による空観を絶えず是認しようとする消極的な自己解決より私徳の領域では至善ではないが故、その敬虔な祈りや裏返しの呪いが止むことはないかもしれない。なぜなら個別具体的な倫理、エトス、モラルは相反する事しばしばであって、この常なる緊張と対立の解消の為には対話術的考察や、立法、行政、司法の段階を経た裁判、又は単なる判断が必要とされ、しかもこれらの矛盾しあう癖の間の摩擦は、繁殖や混沌という世界の多様化現象から必然かつ半永久的に生じ続けるのだから。
 形而下学者、いわゆる科学者と言われる専門家らと見なされたかそうと自己認識している人々が定義したがる真理全体の概念である全知は、工学的修練や芸術的天才を含む個々の技芸集の全体たる全能の前段階である。すなわち、全知は全能の前段階であり、更に全能は、全道徳としての全徳の前段階である。全技術が使えてもそれを善く用いる仕方を知らねば、つまり悪徳を持った全能者がいれば彼らは単なる悪魔に過ぎないが、もし全徳かつ全能なる存在がいれば、その者こそ本来の意味での一神教の神と呼ばれるにふさわしいであろう。ところで、これらの究極的存在は当為であり、現実世界でみいだせるのはそれぞれ、博識、万能、聖徳な存在が神性へ向かって漸近的に分布する変異である。相対主義や宗教原理主義などの分かりやすい姿が単なる自文化中心主義の偏りなのは当然でも、その他すべて己の考え方を少しも否定しえず無矛盾だとしか思えないのなら、それは自らの癖を利己的に狂信する自己過信の傾向に基づいている。個別具体的な癖やethicsが、普遍抽象的な道徳や全徳とは異なる次元での話なのはこの為であり、いわば繁殖の為に本能に基づいて利己的にふるまうのが動物性や獣性、それらの個別具体的な事象から離れて全体がより調和的な秩序をもつよう利他的な自己犠牲を目指してふるまうのが道徳性や精神性である。よく飼いならされた家畜や愛玩動物、或いは補助動物が、特定の人より遙か道徳的で精神性に富んだ利他行動をする場合があるが、これは彼らの癖が時に本能に反する様しつけられたからであり、更に特例にせよ互恵性の前提とされない利他行動が人以外の動植物にみられる事も、何らかの環境適応下での癖や偶然的浮動を鑑みれば十分あり得る事である。より精神的な存在は、少なくとも神性へ向かっての展開の途上なのがみてとれる。知的設計説が自然の無目的性より自然学の範囲で説得力がないのは、それが道徳的理想という形而上学における或る世界観の議論だからで、この設計を図った存在が創造主たる神であろうと仮定する妄想は、旧約聖書をはじめ各地の神話にもみられる一定の共同幻想である。我々が道具を使いだしてから、それを作る目的という観念を得、道具と目的の手段的関係性を援用して類推すれば、我々にとって不可解な全世界の現象に根源的なとある原因があると考えるのは必然だったのだろう。人が道具を作っていた事も同時にこの関係妄想に適用すれば、人型の宇宙創造主が空想に描かれたとしても不思議ではない。ビッグバン理論も創造神話の物理学における延伸に過ぎない。私に現時点で理解できるのは、全徳の唯一神が知能の極限に定義できる限り、世界の原因もこの存在は当然知ってもいるし実際に世界を無から創り出す事もできたに違いないという事である。人が経験してきた無数の不条理の為、或いは多神教において諸能力がより上位の神が存在するという最高神へ至る論理展開を認めないが故、しかもそもそも物理世界において人類が獲得してきた知能の類比としての存在を神と名づけるのは宗教的迷信に箔付けする愚行だと考える近代理性が邪魔をしても、唯一神に託されている全徳という当為さえ無かったことにするのは難しい。もし宇宙がほぼ際限なく無限であるとすれば、何らかの働きとして、無限の高貴性の延長上に全徳をもつ存在者があり得る。そしてこの事は、害他性を多少なりとも持つ何等かの本能を消し去りえない地球の今日における全ての生命体とは異なる存在があり、その存在は完成された慈善の塊であり、極大の力における勧善懲悪の実現といったあらゆる業を操作する技能をもっているであろうし、完全情報としての全宇宙のあらゆる認識を一手にしているであろう。我々は哲学の道を辿って、各自の足並みによってではありながら、この絶対的神性に生ある限り到達するよう粘り強く進化を続けるべきなのである。