金がないのは欲がない証であり、無欲が最適であるからには、資本主義者らは蓄財欲の為の奉仕に引きずられているといえる。他方で生活保護を至上とする生保主義者らの一部は国家に寄生し、徴税権を私的快楽の為に濫用しようとする面を常々、勤労道徳を主張する資本主義者から非難される。だが資本主義者(資本家)が、生保主義者(生保者)を含めた消費者と労働者を搾取する事で欲深い資本家の強欲が満たされるといえるので、この非難は公平さを欠く。生保者には怠惰のみでなく、何らかの搾取不適合者、或いは宗教や信念上の理由で慈善家が含まれる。
又、全員労働、皆労働、皆勤を主張する人々は、自由を奉じず標準類型とした社会平均の仮想的個性や徴税に関する強迫観念から、何らかの社会主義者、そしてこの自由の否定の傾向を強く持つ人は共産主義者である。更に、天皇家や王侯貴族ら旧資本家に依存的な人々は宗教原理主義者か保守主義者である。
自ら欲する所の物を得る、という意味で、これらに平衡を取るには、個人の自由を中心に考えざるを得ない。人は各々なさしむる位置を占めればよく、無欲も怠惰も勤労も、他人への害が見いだせない限り他者へ強制的であるべきでない。
原理や保守、社会や共産が危険なのは不適材不適所を強要するからで、世の効率を損うばかりか、分業にすら反する。また始めに述べた通り、資本は労働者と消費者から搾取して成り立ち、しかも株主は経営者からさえ搾取しているのだから、少しも誇るべき点は見当たらないのに、その傲慢さで貧困層を更に搾取できない事を八つ当たりめかして働け、納税しろと生保者ら始め経済弱者を迫害している。この害毒は甚だしく、怠惰な者が生活保護に入ろうとして合福祉な生活を営む権利を妨害さえする。ここに人権侵害の証拠があるのであり、怠惰な生保者が福祉を受ける権利をその他の人々が侵害するべきではないのである。しかも、生保者の中には僧侶や非金銭的な生活を営む慈善家も含まれるだろうし、これらの人々の生存権を阻害しているのが資本家の悪業なのである。搾取の罪をいいあてるなら、資本家や商人、労働者は一切が常々罪を犯してい
るのだから、彼らが不経済な人々を迫害するのは単なる自由の侵害でしかない。勤労、納税、教育は天皇家が国民を奴隷化する為に捏造した教義たる思い込みであり、これらは各法を超えた普遍的な義務ではない。資本家の脱税は常態となっており、労働者や生保者は一方的に搾取収奪されているが無自覚だ。天皇家は納税どころか更に税を搾取し、最大の生保者ともいえる。
望ましいのは、天皇家や資本家といった経済強者の有害な振る舞いと傲慢を制限し、労働者や生保者といった経済弱者の権利や自由を擁護する事である。また無知や無教養に基づく天皇家や資本家への崇拝や追従、従属を啓蒙によって解除し、労働者や生保者らが被搾取的な立場である同士にも関わらず足を引っ張り合う過ちを諌めるべきである。搾取は最大の罪といってもよく、天皇家や資本家は労働者や生保者らを搾取している。生保者が寄生しているという見方は天皇家もそうである事を見逃しており、しかも、労働者も資本家に寄生し、資本家は取引慣行の法的統制や私設軍隊を持つ費用を節減すべく、天皇家に寄生しているのだ。革命によって王侯が退陣した国々で、天皇家に該当する地位は一代貴族としての大統領や首相、さもなくば官僚が占めているが、彼らも収奪対象としての労働者に寄生しているのである。これら相互依存関係は経済の今日の姿であり、その部分にあって権利侵害の患部を摘出し、照射的に治癒する事が必要である。