2017年1月13日

手記

 関西人の現代にも普通の性悪さ、中韓からの侵略移民としての悪辣極まる歴史を思うと、関西やそこの人々を嫌悪や忌避するのは自然な事に思う。悪い性質のものを忌み嫌うのは自然な人間性である。寧ろ偽善はこの種の悪を寛大に赦したり正当化しようとする所から始まり、挙句に被害者側である先住日本人に冤罪を着せようとする弥生人、天皇家の思う壺になった。
 一見優雅にみえる芸術界もまた、天才による絶滅戦争に過ぎない。この生存競争はミーム戦争として通常の競争と何ら変わりない様相を呈し、位階制を作りさえする。だから良心的な芸術家、作家は階級を生じさせるあらゆる制度から離れて居る事になり、結果として不遇を託つ。通常、芸術が自由業だと思われている点でこの位階制は隠蔽されており、作家は作品に関連した売り上げで生活しているという意味で商業的競争からも自由になれない事が理解されていない。芸術は虐げられた人、弱者の反撃として使われてきたと人々は信じているかもしれないが、これは近代主義による誤解である。実際はある才能の差による熾烈な競争があるにすぎない。芸術表現がとるにたりない物とみなされる時この残虐さは頂点に達し、武器による戦争とは異なる様相で勝敗が分かれてしまう。選眼者は判断という殺人方法で芸術的弱者を蹂躙する。彼らが愚かなら益々野蛮になり、悪趣味と呼ばれるやり口で善良な芸術家を死に追いやる。勿論、芸術におけるミーム戦争は武器による殺害より上品かもしれないが、そして少なくともある場合には善意による戦況の緩和がありうるかもしれないが、究極のところ新たな戦場をつくりあげているにすぎない。調度、鳥や虫が鳴き声で性選択する様に、芸術は道具を使って耳目の器用さやら感覚的知能を競い、勝者が全取りする。芸術が優雅だという誤解、もしくは解釈は訓練の過酷さや探求の孤独を知らない者の言で、無理解からくる貧窮による餓死か過度の孤立による発狂という終わりをもつ、決死の戦地にいる戦士と違いがない。だからといって彼ら芸術家の全てが英雄だというわけでは勿論なく、怠けや無能によって自滅していったり、偽りの権威や偽装した身の上によってその日暮らしを曖昧な職分の肩書きで覆う者が殆ど全てである。芸術家が安全網になるという考えは、もしあるとすればだが、誤解だ。我々を感動させる傑作はまれだし、下らないそれは下らない連中に好まれているのにすぎず、結局、大道芸人らがごくまれに生活の足しをえるにせよ十分な収入が得られる場合は基本的に皆無である。
 一般に商業的に成功した人々は他人に不愉快さを引き起こす。彼らの存在は我らに不都合であり、有害ですらあるからだ。商人に我々が感じる一般的不快感はこの商いの利己的な有害性から生じる。だから人々は芸術家に清貧という理想を投影する。それは下らない商売だとかつまらない職業に忙殺されている人々が憧れる自己実現像だから、というだけではない。商業的精神に汚染された計算高い交換から離脱して思考している様にみえる芸術家らの法外な浪費、顕示に、彼らの行いの無意味さを映して仮の解放感を得る。実際この偽善的芝居の負担をするのは人々ではなく、困窮のうちにモルモットだかハムスターの様に置かれ、観察され、弄ばれて死ぬ芸術家の方だが。この文化人なる無害化したペット、つまり道化を飼う政治家やら有産者は、一般民衆がこの種の革命行動には関心を持たないノンポリになるのを期待して数々の賞だの勲章だのを浴びせかけ、といってもけちけちと、或いは教育と呼ぶ洗脳を通じた巧妙な騙しによってだが、時には文化人なるものの中の一部の人が力を入れて生み出したごみを収集し偶然大金を与え、彼らを成功者の様に繕い偶像化させるのである。勿論今日この役割を担う様になった一般大衆、凡人と自称する労働主義者らは通俗的で低級なやり方でそうする。即ち、彼らが購買し、理解できる範囲の低俗な大衆商業主義の代物、サブカルチャーによって。
 利己的な下人は本能が理性より強いので、東京都民や関西人によくある様、病的なまで獣類に似ている。金を貪るケダモノであり、獰猛で邪悪だから何もよい点がないのだが、奴らはその虚栄心の為に文化人達の世界を侮蔑し、獣類界を作る。こちらでは相変わらず野蛮時代と変わらない理法が支配しており、弱肉強食が信じられている。西国、山口九州でそうな様に。彼らは欧米の悪業を真似て侵略主義を述べた旧中韓人であり、日本の面をかぶった狐として極東の傲慢な偽物として行き場がないまま、野蛮によって世界征服を企む。成る程救いがない。だが彼らが先人の罪に目覚めたり反省する日もこないだろう。獣類に反省や善意という芸当は高等すぎるのだ。