2017年1月13日

道徳と幸福

道徳のない人々は、幸福になりえない。不道徳な人、性悪の人が得られる限度は偶然による幸運でしかない。
 全ての生き方の中で、道徳的な人生を我々は幸福と呼んでいる。不道徳な振る舞いをし、或いは哲学について軽視なり侮蔑してその日を暮らす人間がいう自称幸福は、確かに他人の目には破滅的な瞬間の享楽だとか、短期的に得られる中毒、またその種の人に往々にしてあるよう他人を傷つける悪意といった、とるにたりない低級な快楽か単なる悪行に過ぎない。この不道徳な人の真逆に位置する生き方をしている人が、その状態においても死後においても、幸福な人と呼ばれる。
 そして不道徳な人達は、彼らに共感できる程度に不埒な人達を幸福だとみなす。裏返せば高邁な人、立派な人は、道徳的な人々によってのみ幸福だとみなされる。この意味で、低俗な人と高貴な人の思う幸福像は異なり、彼らの作る国、仲間は互いに異なっている。だからこの世には様々な国、地域、仲間が生じるのであり、他方で、低俗でも高貴でもない中間的な第三者の目にはこの二者、即ち低俗な人の集まりと高貴な人の集まりはそれと分かる違いである。俗人は低俗な故に貴人をそしり、また貴人は高貴な故に低俗な人を軽蔑している。中間的な凡人が邪悪なら多数派である俗人に媚び、良識があるなら少数派である貴人と歩もうとする。ここでいう貴賎は政治的地位や富の事ではなく、道徳性をいう。ある国家が高貴か低俗かは、この中間派、中数派の向上・堕落いかんにかかっており、高貴な地域は道徳的な人達が暮らしているだけ、つまり利他性やその類の知能が高く善に向けられた人助けに習慣づけられている立派な人々が生きているだけ低俗な地域より幸福である。