2012年3月30日

ウィトゲンシュタインと哲学のすがた

ウィトゲンシュタインの面白さは、かれが恥ずかしさなしに、いわばのべつまくなしに自己開示をしまくることへのはための性のわるい快楽とにている。傍ら痛さのために購買される本が近現代の勝者様、米英哲学の古典とは。喜劇役者へそうかまけるのと相似で、かれが「沈黙しなければ」といいつつもあらゆるおろかさをなんの恥ずかしさもなしにばらすのがおかしいのだ。もしウィトがなにもかきのこさず、だれかにとって重大な忠告をうつむきがちにくりかえしていただけだったならばプラトンとおなじすさまじくおろかしいおもいつめた崇拝にみちたschoolをつくりえただろうに。
 この評定が、哲学とよばれているたちのこころみ一切にあてられる。
 なにもいいえないところに、なにも実現できないとんでもない悪所でなぜか他人へ頼ってくれたよってくれ、信じてくれよとあてさきのない手紙にしてまで未来へたのみまくる者のおかしみは、地獄に堕ちた人類の一員がもうけ話以外のめあてによってかたりかけるその必死さがまた同時にはなはだしく喜劇的なのである。こうやってかえりみれば、資本主義経済社会は事実上の地獄であるとみてとれる。しかし、現にそこにくらす私達とはなにものだろうか。悪魔か蛇か、どちらにせよ神を信じ、神のためにはたらくが王やら金持ちやら自分よりはるか邪悪な吐き気のする俗悪な同類から時々刻々と搾取されつづけているのだが。
 それが人類のうみだしたすべての社会のかたちのなかでもっともたちの悪いものであり、最低のもっとも退廃しきった堕落した人類のありさまで救い様がなく、人々はなんとかいいわけをこねて自分たちのおそろしいまでの性悪さ、むきだしの利己性をかざりたてようともがくが、そこでえられているのはただの金、あとは悪徳持ち達からのつめたい目線だけである。ほかになにがあったろう。知識人、文化人、芸術家、科学者、技術者、文人、思想家、伝統工芸人、医師、哲学者、農民、工場作業員、掃除人、法律学者、職人あるいはなんであれ金儲け以外を生産するひとびとへのどれだけの尊敬でも、まがまがしいまでのおおくいる皇帝とそこにぶらさがり依存して貢ぎ物を慣習にしている数かぞえきれない商売によってあってなきがごとく利潤をしぼりとられつづける。しかもこのわるさへの強制参加という状況に甘んじて我慢しなければ日々貧民になってしまう。邪悪な世襲独裁者のための奴隷制度の名義を勤労と納税の義務としたその血統に於いて近縁だったゆえに全国民犠牲のもと利己的にふるまった天皇界隈の極悪性はどういいわけがつくというのか。必死でいきている同類をくらう人喰いの業を閻魔が来世中でどう裁くか見物だ。
 ウィトのおかしさ。あるいは、自分自身のこころの鏡に映った。
 われわれのおろかしさを正直にかたりえない者ほど、同類にとって、つまりわれわれと部分的に似た遺伝子をもつ生き物にとって罪深いうそつきがいるだろうか。ただわれわれの良心が問題なのだ。たとえそれがうたがわれ、うらぎられ、小馬鹿にされ、からかわれ、不当におとしめられながら最悪のときジーザスやソクラテスの運命におちいったとしても、程度がかるかったばあい裸のおうさまやドンキホーテのごとくあわれであれ、われわれの良心をなくすほどの罪深い業がこの世に一つたりともあるものだろうか。
 傍ら痛さをとおして、それでもなにごとか、あるべきことを語るのはウィトのおろかさをみてさえわれわれの人類が文明という壮大な劇団を作り出そうとしてからのただ一つの伝統なのである。すべて、ことばがつくりあげている不可能なことを語る者へ、つまり当為についてことばにしようとする者へわれわれのおぼえるある面白さは、この占い劇団の設営維持の困難さを説明しているのと同時に人類が属してきた地球の各地にばらまかれた種のおかれた複雑多岐な条件をおしえている。
 わたしのみてきたすさまじくおろかしい歴史劇場。一体それもおなじことではないはずがあるだろうか。世界精神をふるまうアメリカ帝国の大統領を傍ら痛くみているわたしの良心は、一体それでも日本と名をかえた倭の皇帝様やら連合国側でいまなお健在なイギリス帝国の王様を別に北朝鮮の将軍様とおおはばに違う役者だとはおもわない。その恥ずかしい愚かな業のすべて、卑しめられた出自を転覆しようとした薩長同盟を美化した大阪の小説屋や西日本人のつくりだそうとした悲喜劇のすべてがわたしの目にはただの一幕の笑い話。誠実に生きているはず個人の声がそれほど愚劣に満ちてきたとは誰が想像だにしたろう。馬車馬の様に金儲けをしさせながら、そのすきまでうめき声をあげている人類。誰がこうなるとおもったろう。
 なにもしりえないこと、なにもかたりえないことが人類のうえにうみだす慰めには本来の物語りの、仲間同士のはなしあいの意味がある。哲学とよばれた活動の一切がそうなのだ。科学知識は自然がそうある通りの冷たい学識なので、そこになんらかの慰めをみいだすことができない。社会学についてもやはり人類の既存の業績を自然として示すにとどまる。だから、愚を守るという最高の知能をもつ道徳観のもとに立つ者だけが本来の智恵をともにする者だったのだろう。ウィトゲンシュタインのおろかしい風貌やふるまいの愚鈍は、かれの風変わりさを聖らしさと誤解させたおおくの勘違いの余地があったとはいえ、この愚劣な人類の象徴的なかたりあいというもっともひくい程度のことばづかいこそが人類の共通してしりたがっているなにごとかなのだ。
 理想とよばれているもの、善のideaというものがこれほどまでに劣悪な構造、つまり人類同士の無能の自覚からひねりだされるとはどういうことなのだろう。プラトンや孔子が学び、考えつづけた意味合いでの理想とやらがこれほどおかしな人のありさまのmimesisからいいわけがましくひねりだされるとは。ロールズ格差原理によれば、この理想が当為とされている、liberalismのなかに設置された弱者保護あるいは愚者への共感のしわざは、人類がうみだした欺瞞のなかでももっとも深刻で、ほとんど同情の余地はなくおもえる。良識とか法学とか裁判とか、そもそも政治とか群れ行動とかよばれている一切がこれほどすさまじく欺かれた仕業から出てきている。それなりに長い歴史のいま現在の先端の一つにいるわたしにいうことができるのは、哲学によって保護される人々のありかたは決して賢明の名辞ではなく、英慮や肯んじですらなく、ただ芸事とみてももっとも基礎的というだけだろう。人類がこの基礎をもたない社会にいた試しがない。人々が無駄話のなかで特定のよしあしを何となく決めたり、つまり評判したり、あるいはなんらかの行動後にそのいいわけというものをつくりあげなかったことはない。なぜならば何々、という論理の時間的遡逆化はすべていいわけであり、自然に於ける法則だった必然性の説明ではなかった。こうしてみれば、国家に於ける権力とかこれを正当化している法律、警察の行為、それ以前に道徳、宗教感情、あるいは評判すらそもそもの出はただの言い訳にすぎない。ウィトが羞恥心をもとに自己を戒めながらもうみだしてしまっているすべての無駄話がこれなのだ。この愚劣な言い訳があるかぎり、人類が機械とはちがったなんらかの乱雑で、同士間でのありえなさ、あるいはあやまちとその後追いでの罰による社会をつくるのは確かだろう。賞与さえも事態が出現してそのあとから大勢がよってたかり作り上げられるばかりであり、人類が何に向かって進歩をしているか誰かがはっきりと示せた試しがないばかりか、大半の意見がわかれいつもどこが正解かわからない数かぞえきれない狭い門のまえで右往左往しながらぶつかってしまい喧嘩したりしている全人類と生命体の醜態。われわれよりはるかに賢い生命体から一切の世界についてできるだけ短い期間に知ることが命題なのだ。道を知ることが、仮にその中途で個々の生命をうばったとしても、終局の為に誤りなく歩んで行ける最大の指針となる。野蛮な連中こそ自分から運動する事が多いから、この命題が確率的に果たされた試しがない。
 いいわけをしない機械。かれらとのちがいが単なることばによる使い方のまちがいにあるとは驚きだ。そして大変におそろしい獣類のたわむれる社会でこわがりながら暮らしているわれわれの姿もこうしてはっきりと示される。遡及処罰の禁止さえもわれわれの持ち得る人生時間のいとまにくらべ、習わねばならない法律が莫大すぎてなんの救済措置にさえなっていないくらい粗雑な、置かれた自称先進国での人生状況の悪条件。しかし、一体、自称途上国からみてわれわれの姿が恵まれて映るのは甚だしい矛盾であり、事実この競争条件の差が国家の進歩度そのもの。だからどれほど先進化しても、人類の末裔が自らをただ無限の幸福を快楽のみにみいだせる事はないだろう。あるのは、一定の苦楽が中庸性をたもった内にのまれている理性の段階だけだ。そしてこの段階こそが、幸福とよばれてアリストテレスやカントから定義されてきたtheoriaの程度なのだ。道という漢字が示している何らかの普遍性への進み方も同じだろう。仏教や神学の修業僧も、哲学者もこの理論的段階をある程度問題として辿り行くが、終点に至った試しがないとはいえ、その程度こそが本来の人類界でなされるべき仕事なのだ。