2011年5月25日

文化史と時代の章

我々は現し世で三流以下の俗物が権威や権力の座を占めるのをつね目にした。成る程これらの経験は、全く宜しい時代ではなかった証。之らの俗物は所謂衆愚の増殖へのみ手を貸しその力を増した。ある時代では之らは刷新されており、人々はつよい幸福感やわくわくする期待を胸に生きている。つまり祖先がいかに来世を計り、より優れた人事を事前に企てたか、世俗の価値を超越した判断をもちえたかに次世代の置かれる文化環境がある。

 私が遺しておきたい記録は、確かに当面の間、ある分野では俗物が支配していたということ。そして違う分野では必ずしもそうでなかった。腐敗した分野がある。そういう分野は歴史家の前に残念さや惜しみと軽視や蔑みといった負の覚え書きを記させる。
 三流の文化をしるときそこにいた人々、それらの築き上げに携わった人々の哀れさをみれる。彼らの愚かしさ、劣ったさが、ありとあらゆる不正は現に目撃していた私にとって悪といいあらわすのが適当で、又みにくさとして言える全ての判断ミスがそこには恒常化していた。

 人は一流の文化が本当の一部で、僅かな人々の手で築かれるのをみた。しかし、異なる分野ではどこにもその影もなかった。時代の章は之らを概観して一括りにしてしまいがちだが、実際にその差は別々の時代をもこえていて混同しえない。文化史を歴史にみる者はこの「分野史」というものに着目すべき。ある分野は他の時代よりしばし離れている。私は単に歴史学の上のみならず、現に文化サロンの様々さと驚くべき格差を目の当たりにしてさえ之を理解した。
 腐っている分野では決して他の時代水準の議論も想定もなく、一種の蠱惑らが地獄の様相で謗りあっている。しかし更に驚くのはこの風体で文化をなのり且つ社会はその分野の腐敗をも当然とうけいれるものなのだ。恰も特権として。