2010年12月30日

範畴三元論の限界

カントの三元論は実は基本な範畴論であり、自体は理念内の定義なのでかえたり違えたり自由にできる。その意味で実際のカント三元論は言葉の仮想で、実在でない。柄谷氏がたとえばこの三元論を下敷きに社会構造を分析したのも自体は、仮想の枠組みを転用した訳で現実に三元論の仕業が創造主から与えられていた、のでもない。人為による仮設物な限り、三元論は物自体になりえていないし神そのものへの信ですらない。
 更に現実の社会な能力はこの三元さに厳密にあてはまるのではない。要するにカントも自覚していたらしく、この範畴三元論は基礎づけの意味としての批判を行ったのみでそれに於いて結論になる訳でも学術の結論になるでもない。人は随筆の類別で厳しく知識と理念を分ける訳にもいかず、かといって私情にわたる理知的随想を文芸の値より外から教科書とするにも気が引ける。範疇三元論は大まかな学術傾向の分類に使える已。自体は功績だが、基礎認識に留まっている。そして詳細に亘っては未だしられない無数の分野と認識の方法論がありうる。