2010年12月29日

趣味説とイギリス功利主義

社会な功利さ、巧みさは人倫と矛盾する利己さに返せない。こう捉える原理主義者は、功利説が自体の福利を徳の基礎に置いたと分らずにいる。よってこの人が多く自己犠牲に伴う利他行動の正当さを力説するのをみるが、我々は使用者の思想が使われる者の幸福と何等齟齬しない許りかその強化力線に繋がるのも悟る。
 日文でいう功利が、利の文字面と功の意味合いからかれらの勘違いをうけさせやすいのは一理。ゆえ日語化したutilitarianismを趣味の用語にまとめるのはイギリス功利主義との区別にも使える。ここでいう趣は、使用する者としての心得により語感が近い故。
 趣味説の本質は適材適所を意図した幸福主義にある。習性な場所官能は彼らに千差万別の合目的さ、審美観を植えておりそれらは縁起している。イギリス功利主義の中に動物功利主義の側面や清教徒説との漸近が暗黙づけられた結果、植民化帝国理説が燃やされたのは彼らの口に場所学の覚えがなかった事による。場所学は風土論から起源した地域哲学だが、単なる地政学、地理の政治史とはことなる帰結をもち、比較文化を前置きにした倫理分析へ進む。そこでは生態知の一切が用いられう。故に生き物とみた全ての動態は人類その他、及び微生物含む無機環境への洞察迄もが類推のめあてとなり我々が、知覚基盤をもことにするゆえ一律な理説への狂信を戒め、文明活動を含む適度な共生の仕組みをめざさせる知恵ともなりえるもの。