2010年12月31日

文明と扶養

人類が、文明化に伴い高い教養と共に少数の子供を望むのは客観して人口支持力の為といえそう。それは所得を上げつつ失う扶養数を節約したがる。多すぎる子孫数についての有名な諺は、内的増加傾向としての低度の教養に伴う再生産率の早さ、乃ち早稲さの代名詞に繋がっている。
 この傾きは文明化が、人口分の生産性を所得水準に比例した教養度へ定めたがってきた事、要は文化形質に伴う豊かで多彩な人生経験を大多数の子孫へ願うのを宿命じみて説き明かすか。長寿の適所では所得遅滞に伴う晩婚化が専ら忙しく進み、その場の誘因から幼型な血筋に洗練が伴う。文化に極度の高い複合型があてられれば、生態機能の完成は特有の適性へこの血族に含めて社会権能を形質へのりづける。ゆえ教育のめあては実に天才さとしてみられる代表な社会権能を抽き出す圃場作りにあり得る。一般に秀才の群れに於いてしか凡庸と隔絶した天才性は伸び切りえない筈。平均教養の底上げは、多様さに勝る特徴をはっきり目立たせるにも必要。
 かくして文明が少子高齢をいくら進めても困る者はおらず、労働力は機械化と外注で賄われるのでその徳は堆積する許り。且真に文明とは労働の義務からの脱却で、進むなりに我々が担うべき客体の理由は少なくなる。