低次な倫理生態は、よく高い次元の倫理のそれより数量でも快楽の量感で多い。例えば食事中を比べみよ。この違いが幸福度と勘違いされ易いが、現実には幸福とはそれ自体を目的とする快楽の事、つまり理想の事なので多くの倫理生態がその侭で幸福度に最適とはいえない。
有用さに比べて理想は自体の快さ以外の効果をもたない。健康を保つ為のどの生業も、理想にとっての手段でしかない。なぜ理想から已幸福度が導けるかは、人類の地位に等しい筈。人類はその倫理体制次第で社会的幸福を趣違える。そして最高幸福は、常に理想の高さから生じる。
理想自体に終りはない。もし推論がこの世界現象への経過なら、洞察で神意を辿りきるのも当然。又程度で実際に精神のよさ、魂の清さは導ける。神が唯一である限り、多神の論は清さの程にしか言い及ばない。よって人類の地位に偏りがあり、それが倫理体制の完成観から説明できるのも至当。