2010年11月10日

植民主義批判

趣味誘因自体はその場で知能行動の程を高める已で他には誘因自体の因果なし。場所柄は知能行動のたちに映る。文化淘汰の作用そのものが場所柄内での倫理規制に偏りや違いを設く。地球文明は之らの内からの差を決して無化しない筈。地球文明がそれらの土着した地政からことなる理由を作る限り必ず文化作用の変異が保たれ、伝統として違った知能行動を育む。倫理に唯一の正義をみつけるのは難しい。倫理は正義論を異なる文明間で話し合い、自らの立場におきかえて望ましい社会秩序を構想させる已だろう。
 植民の形で競争できない程戦闘に向かない地位の人倫を壊し尽くした倫理は、正義論へは自己正当化の業しか貢献しなかった。いわば植民倫理とはおしつけで、省みではない。この為に、植民倫理の限界はそれが自己の破滅も予言している所、被捕食体制へは一切の正当化ができない所にある。つまり植民主義者は弱肉強食の為により強大な植民体制から奴隷化される必然さがある。之は道徳的に人倫の文明度の違いから生じ、故に世界をより平和に導く。