2010年11月1日

形而上学にとっての知的設計

論証界がある、という事が一貫した脱構築主義者の疑問。実証主義からみて論証界は落ちこぼれの作り上げた砂上の楼閣らしく説明され易いが、全て法は論証界への説明。だからその人物は法が、他ならず社会秩序の轍が幻だとみたてている。だが現に法は要求され、又世界内での社会秩序は建設されたがる。論証界は社会秩序の素として機能している。だから論証界がない、とはいえない。
 アリストテレスが形而上学となづけた自然学の後にくる学殖とは、それを定理づけるに冗長度しかいらない類のいい加減な極意を秘めていたが故ひま人と聖者の慰み物として最善だった。でも形而上学がなお法をうみだす理念の原型質な限り誰もそれを嘲笑えない。べきの問いがない社会は想定もできない。もしできることがみな実現される社会なら無秩序以外に形容できないから。そしてどの人種もそこへ適応したがらない。想像の世界でさえ地獄絵巻としかこの無法状態は定義されない。一般に、形而上学の欠如を不条理と呼ぶ。人間が最上級の学問を形而上学に求める根拠は、全科学の最終結論をなお次世代に乗り越え得る論証のみの体系で示すから。
 形而上学の更新可能性は無限。そして論証界が形而上学野の為に残されているのは、この上書きの自由さに基づいている。実証界は緻密でこまかくなるが論証界は正確に全体像をつかむ。各科学が何の為に用いられるべきか、を説明するのが論証界では構想論の基本。
 分析を理由とした実証科学自身はなぜそれを行うか説明できない。科学は知識や詳細を知るが、要はどう世界が成り立ったかを因果律から導けるが、抑なぜかという理由は分からない。論証界にしかべきの問いがないから。神の啓示が降りてこなければ、我々が議論からそれをみいだすしかない。形而上学が神学のつまり宗教解釈論の婢、とよばれていた理由もここにある。だが脱構築主義からみればどの解釈も一切の論証界と似て否定神話の理論でしかなさそう。それはいわゆる道徳神学を否定媒介として禅問答に返るが、他方では冗長度に基づいて世界精神の現代版をときあかす役割も担う。神の念いをあれこれおもいあぐねるのは最大のひま人の勤めだから。もしそれ全てがいやがおうにも主観の投影でも。彼らに理解できない程の冗長度は永遠の学理でしか達成しにくいことから、哲学が神らしさの学問と称される勘違いの源も必ずしも忙事の間違いではない。分野をこえてなにもかも知り尽くす可塑性に最もちかづき易いのが哲学の生活なのだから。
 いくら知的設計論が創造説のダーウィニスト風焼き直しだとしても、神らしさを現世で理解する、という意味では倫理的知的設計論は進化知識の人間解釈として必ずあらわれざるをえないのだから実証できない、として非難するに能わない。
 知的設計の想定対象が擬人化される傾向と原理主義の結びつきこそが本当に倫理論的でないのが問題の核心。故後生からみれば、知的設計非難は浅ましい進化知識人らの倫理論への僭越としかみえまい。つまりは宗教でみれば知的設計学はありえずそれは解釈であり、科学からは事実の他には無目的さしかみえない。ただ哲学の眼だけに倫理的知的設計の可能性が解釈論野にひらけている。そしてそのみちは、道徳の智恵にとっては神のまねでもなければ単に趣味の合理性なのである。不合理な趣味のもとでは、長期予想としての知的設計は実践されない、ということでしかないし、合理な趣味の下では実証界でも論証界でも知的設計というものの合理さは担保され得る。
 結局道徳訓話とみれば一連の知的設計論争は応用としての計画性ある知徳の啓発にしか役立たない筈。神の実証という考えも、知能のよさに伴う比べた把握としては科学で十分可能であり、信仰としては論証のなかで理想の当為として保たれるしかない。宇宙内外であれ。