2010年10月5日

死刑不正論

死刑が残酷さの故に、非人間性の故に赦される可でないのは、それが改悛と悔悟の機会を永遠に奪うから以上に、人間性を悪意として扱おうとする非キリスト的思想の為。もし彼らが迷惑になる犯罪に手を出すとしても習慣やそれに伴う無知の所為であり、正しい導きさえ与えなおされればその更正が図れる、と考える者は彼らの反省と懺悔の念にも関わらずこの世から償いの道を閉ざす点で、死刑正当化論者らの実質的な自殺教唆そのものを野蛮と無慈悲の悪習とみなす。

死刑執行の権利を正当化している者は、量刑扱いした命を現世で勘定にかけるばかりか、目には目をのハムラビ法典式古代の裁決規範へたちかえる中で、文明化の程にも関わらず彼等が人格主義から何もまなばなかった様、乃ち共同体の秩序を非現世的領域へさえひきのばす暴威の面で業を悪意の連鎖へとひきさげる面持ちにある。
 我々が倫理規範を人格主義の段階へさえ立ち至る覚悟があれば、悪人がその改められた自発的意思の為に償いを続けることこそ、文化と社会風紀の両面にとって望ましい解決策だときづく。
自殺含む殺害を認める宗教がこれらのキリスト教的人格へいかに対していても、共同体が償いの習性に伴う赦しを以て客観した第三者への最大の畏敬に値するなら、その社会では暴力に訴えることでではなく、理性へ訴える風習の為に多くの日常行状の改善がみられるだろう。
そして話し合いを通して利害関係を解消する習性の生き残り率の高められ方に応じ、いざこざが戦争へ発露されるのではなく、議論という公正にして哲学的な領域へと還元されゆく世になるだろう。