2010年10月23日

東洋の倫理形式

語りえないことへは沈黙を得る、の命題は、知性と理性つまり純粋理性と実践理性へカントが批判書で注解しておいた見解のいいかえな丈。この場合で語りえないこと、とは実践理性のつまり理性側の道徳命題になる。この道徳命題は自然科学側からは導けないのがカントにあっては自明だった。所が、ウィトゲンシュタインは道徳命題がこれを論理機構の働きのみには還元できないと考え、その為の表示をしながら遂には道徳とは論理作用ではないと結論した。
 乃ちウィトゲンシュタインの定めた命題は、道徳が自然科学とは異なるが故に確かさが低いので語るべきではない、という判断を凝縮かはぶいて言い添えたもの。逆にカントはこの判断を単なる形式にひきあげ、つまり通り一遍の型にはめ、汝の意思の確律が常に普遍的立法の原理として作用する様行為せよ、と定めた。
 要は道徳が、少なくとも西洋社会で内容の域で語られる傾向にないのは、これらの代表的命題からは言える。つまりべきの問いは西洋でとわれづらいか、敢えてとわれなくていいとされている。その訳は、既に豊富な内容を供えた聖書があるから。
 脱構築がこれらの形式主義的倫理観を除こうとしたのは、東洋の眼には内容を語る禁忌をとりもどす為に有効らしい。西洋ではその内容が保守され、又は進化論などの別の体系と衝突しているが、抑形式主義的倫理観をもたなかったか、異なる体系に属した周縁圏ではこれらの論争そのものが一般な冗長さへの誘い込みにしかみえない。禅などに既に示されているが、そこでは形式と内容にはっきりした区別はない。故聖書の文脈は、また他のどの文章とも並列化されえてきた。もし東洋で原理主義を述べても、不思議な顔をされる場合が殆どだろう。裏に東洋では明らかな形式が、その内容の不在に併せて定義されていない。禅問答という言葉それが既に無の方法を指している。凡そアジアの風土に近づくと、そこでは自然の超倫理さが語られる。無は人為を排する。どの形式も他を圧倒する命題として定義されない。同じく、アジアの殆どの人倫は原理的機軸を要さない。神の理念さえ必ずしもかれらにあって共有しない侭、共生の体系が築かれ且つ維持される。
 和辻が季節風型、と呼んだこの倫理傾向は、適応行動としてその場へ受け身の姿勢を求めさせる。そしてオリエンタリズムの中に女性らしさとして画かれる姿勢は、実はこの自然環境の包容的特質から自ずと導かれている。東洋の道徳命題は無に帰する。各種の了見は、沈黙とは異なる文脈で、必ずこの無の姿へと元に還されていく。ダーウィンが述べるずっと以前から、東洋では自然淘汰の法則が「無為にして為さざるなし」という老子の逆説で実践的には悟られていた。弱肉強食が人間社会の法則でないことは、「驕れる者久しからず」の物語の一節によって諸行無常の理念の元で普く膾炙されてきた。
 この形式主義倫理観と、無の理想の対比は道徳命題がいかに属した自然環境の適所らしさによって違う趣をとるかをまざまざと示す点で格好の題材であり、西洋社会が法治による形式の順化をめざしたのに比べ東洋では一定の命題の外へその実践面での解決を投げやっている違いがあり、もし現進化論者の冷徹な観察眼にかかれば、自然淘汰則の道徳的順位制度への自己適用へどんな留保も設けていない面で東洋の倫理規範へも一定以上の理性をみいだすだろう。特定の聖書をもたない民族は、内容での規範も有さない代わりにその堕落や残酷な悲惨へ何の救済も期待しない。彼らには自業自得の覚えがあり、この理念には遠い昔に到達された自由界での社会淘汰の全概念が詰まっている。ある面で西洋の倫理人が彼らの聖書に完全に背く故に野蛮とみなしがちな諸習慣はその適所では悪徳の実例を逐一あらたに生成し豊富な負の内容を示しているが故に功利的。なぜ東洋人が公共心に欠けているかの如くみえるかいえば、実はこの自業自得の心得が彼らに絶えざるすみわけの要求を教えているから。