2010年9月6日

聖者と凡下

既存の世界宗教で認められた道徳律やそれらの矛盾ない一致点さえ自らの生活体験から脱落させている人間は、一般的にいって道を踏み外しており、自業自得の末路を経るとしても驚くほど愚かしい。

 この発見を私は「大衆の発見」と呼んでいいと思う。大乗仏教が出立の用語だった大衆は、私の前では衆愚さの共通基盤に見える。そしてユダヤの先人が伝える様に選ばれた民を除いて、この大衆は救われえないだろう。
仏陀の考えを曲解した堕落した無明者どもへ禍あれ! 仏陀の考えは只、世の縁起から学ぶ者にこそ悟りの境地ありという単純で思慮深いものだった。歴史家の眼差しと言ってもいい。大衆が歴史から学ぶ事があるだろうか?

輪廻や破滅は大衆の前に常にさざめく。世の厭いわずらい苦しみは終りがない。破滅や粛清はこういう集合が必ず陥る末路であり、業の蓄積がある段階を経て結晶したものでしかない。
 懺悔や悔悟でとりかえせる功徳も必ず一定の集合に適う。因果応報はどの生態をもとりのがさず。

聖人達の集まりの前ではどんな大衆もその身を恥じる。信仰とその為の聖者らの研究を続けよ。必ずや精神的救済の高い程度を得るであろう。それは悟りと呼ばれる。そして因果からより高い悟りを得る者は聖者らの列に加わる。