2010年9月6日

物質思想と心理的自由度

ホッブズがいう自由の定義、要はいままでイギリス哲学の上に続く物質思想の自由は次の観点から過ちか曖昧。先ず自由は社会でしか定義されない。物理の自由はない。意志はそれが他人との関係かいわゆる間柄を通してしかみあたらない。もし無人島の個人がいても、そこで自由や意志を語る習性はなくなる。大体行いの手順を他者へ伝えるという介在関係でこそ意志という行い以前の説明語がでてきた。自由意志や自由と意志はこれらの脱構築に耐えない。物質思想の自由はかくも脆い基盤をよりどころとしてきた。
 神の脱構築を行いたがっている現代のイギリス科学趣味哲学の流れは、もし自由意志がなりたたねば社会を解体か、ばらばらにする。神なき自由は社会的理性の一切を捨てた奔放への意志に返る。つまりイギリス哲学の個人主義的傾向は、非社会さか社交なさを免れない。
 もしこれまで多くの文脈か立場で語られた伝統や独創さある数々の用語を全てうしなわそうとする試みに、この個人主義的脱構築派がいくらか成功しても、およそ他者伝達系という理性の余地がのこれば、我々は物理以外の出来事としての形而上学野を再びみなおさねばならない。全てこの系列を通してしか物事へ意味はとれない。定義集の名目をもつ辞書さえも、必ず一定の形而上学を引いてしかそれを伝えられぬのをみよ。自由意志は社会での間柄へのそれに真の意味をもつ。つまりそれは心理制御の系統。他者の意向に関わらず己の単位での意いを成し遂げる事を自由とよぶなら、物質的自由は寧ろたやすさとか妨げなさ、しやすさ、容易といった低次の作用列。我が儘は自由が他者の自由と強い反作用を伴う時の名示。逆に放任はこの他者との摩擦がほぼ皆無の状態をいう。
 積極的に自由を追う者は必ず他者の意志、つまり未然の行為列との間での適度な関係をそうする筈。我々が先駆け、中継ぎ、後追いなどといった自由の種別をみるなら、協調関係の系列としてのみ自由度をはかれる。最高の自由も最低のそれもない代わり、遅速だけがあるだろう。より速い自由は他の社会成員を出し抜くかその意志を先取りしている。同じく、孤立した個りだけの自由は全くはかれない。そして一般の自由主義的意向は、みなこれらの自由度という協調性に於ける立ち位置が、他者へどれだけの影響を与えるかに限り定義できよう。不自由とか拘束、縛られた、或いは命じられ牛耳られた意志は必ず影響力の弱い行いの系列へ自らの立場がおいこまれた結果。だから自由主義そのものは、もし経済思想をこえてすら、影響の強さを関わった主観の系統内で追い求める者への啓発でそれをこえない。