2010年9月8日

普遍文明学の礎

社会文明は必ずしも学識文明ではない。つまり大衆や大勢、多数者とその交易をはかる時に社会化された文明が起こる。文明はcivilizationの訳語から出たが、自体が意味させる世界観には純粋な学識文化界への参加意図がある。つまり文明を知るにはふみあきらかにならねばならない。市民化の現象は文明のそれと相似ではない。故社会文明の適応は、常に学識文明の程度にしか定まらない。市民が得た社会さに学識文明度がみられる時その大勢に何らかの機能か働きがみられる。
 以上の解説で人類が嘗てつくった歴史上の大きな文化帯は学識文明の伝わりによっていたとわかる。基底が理由とされる構造思想のもとわりは正しく、彼らが何をよりどころに心理的自由を追い求めたかの所残。
 もし学識文明をもたない社会があっても、当然それは文明という水準を有さないのがこれで定義できた。ヘーゲルのいった世界精神論での自由は、常に文明のそれなのだ。心理的自由へ社会状態が与える各感覚様式への解放度を文明的自由度と再定義してみれば、知覚の自律は結局その主観がもちえる文化の中での働きよさによる。よさに程度があるかぎり、文明での自由もかの知覚能力のほどでしかありえない。完成された自由もないかわり、そこには精神の向上としての学識文明との相互琢磨がみられる。もしより単純に教養こそ学識文明の日常語だとすれば、ヘーゲルの説いた神は教養神の理解度が完全なものへ理想化された状態だと分かる。
 科学から神が知覚できないのはそれが自然界しか相手にしないからだし、神の概念に正しく則れば道徳哲学の最高段階に御座す社会文明の善悪への批判をこえた全徳の知能をそこへあてざるをえない。要するに教養神の概念は形而上学の完成形を手にしている者の、世界の全てが見通せる全知にふさわしい。これは個別の認識がどれだけ詳細を割って行っても、いわゆる数理知識という人間風の知覚基盤での限界制限に則してはありえない。哲学の経過さえ道徳神学によってその倫理観を通した説明に従事するのが精一杯の社会的偶然外の悟りは、必ず自然界の客体計画に基づく。宇宙外生態、少なくとも彼らの意図がなければ道徳の、つまり社会文明での適応の眺めは理想形へ近づくことはない。
 もし神の要素を語ろうとしても、全徳の理念をこえて何事もみいだせないので、この社会文明や文化的無教養におされて現世で過ちや趣味の低い生業に終始しているどの生態も、何世代をへてさえ神格には程遠い。カントが信という概念でしか神格への言及をしなかったのは、たとえ謙遜からだとしても賢慮以上のものがあったし、孔子が知り得ぬものの比喩として神を語らなかったのもやはり社会哲学の限界批判では適切だった。だから社会科学の担い手がこの認知限界をこえて予言者になれる日は、彼らが全徳に到達できない知覚基盤の特殊さ内では当然。
 社会哲学は事実上、社会神学への途上だった。宇宙計画学やその知識の断片でさえ全て社会学そのものがよってたつ幾多もの比較文明論の考究で次第に成し遂げられる様になっていく。どの卑小な生態さえも、道徳精神の前では秩序度の生成主体が組織だてようとする経過あるいは古代風にいって、つまらない可能態でしかない。偉大なる可能態は倫理の学びにとっては、その普遍認識への階梯であると同時に目標の姿だろう。消費密度にみなした自由度は、この種の学識文明を消化できる界隈にあてて我々やその典型を引いた子孫らの精神文化を一定以上に計画された弁証法的発展で導く。彼らのもつ自由度は常に社会文明の計画学内で為せる特徴ある働きでしかなく、それらはどれも多様さも種類も含め、普遍文明知の枠ある一端なので。