経済学上で「公共投資の限界効用」仮説が信べ;のべられたのはそれが国家経営を単位視した修正派の工夫だったといえる。この工夫以前は古典派による個人経営の集団視が普通で、巨視単位で世界貨幣の流通を分析する習いはなかったから。
今日の先進国らの進展をみれば、修正派の施策で限界効用が発揮できる、という論点へは疑問符が呈される。いわば耐久性の高い建設が『恒久財投』の縮減化された税投機の単位として殆ど常識化される事態すら散見される(特に官僚主導で工業趣味近代化が進んだ日本で)。
つまり修正派の考えてきた限界効用は、この種の国家社会では予想より遥かに早く訪れ、政府からの支出で景気回復や有業化が行えなくなる。
現代経済学の大きな命題は、この限界効用の早熟さ、乃ち政府支出と癒着した財政投機の機会費用からの摩耗での資産循環の不能傾向をどう外すかにありそう。
いいかえれば古典派がめざしていた純潔資本の境遇、「需給の平衡」への再起を資産と社会で流通しているすべての資源の間に広げること。要は上述で定義された恒久財投の内容か中身を、最も末端の業務への下請けに至るまで分析し尽くす仕事量が入り用。
この考え方は、貧しい地方を含めた財投の無制約な推進へ一定の注意を向けるので、特に談合で生計の途をはかってきたいくらかの事業主へは理解し難いが、現実に、虚数の投資という還流が不透明な国債発行を赤字財政のもとでつづけているかぎり、実質はこれらの政府癒着の業者は国家公務員と同じなのだ。
彼らの数量がふえればふえるほどのちの世代では赤字国債を返還するための税制上での負担が大きくなる。いわば票田買いという悪癖で資本経済で最重要な最も効率の良い投機を妨げた結果、彼らの本来養えるよりずっと増長した子孫はみなが未来の国際文明で路頭に迷い、或いは悲惨な境遇へおちぶれるのはあきらか。
だから現代派というべき経済学者は、古典派と修正派の限界効用への定義差(事業者単位の微視と巨視)を見比べ、その巨視観へ偏った合理化を最大級の効率にとっては妨げとみなして社会批評を通じ、資産が国家と事業者のどちらかへ滞留しない様な啓蒙を行えねばならない。そしてこの際の技術課題が、現代経済学の主要命題。