場所学の夫々は地域適応と経済圏でしか道徳さを認めない観点に近づく。が普遍道徳論の系譜は、比べでこの仮設物を営ませたがる。全知の理念が之を裏付ける。けれども知覚基盤を鑑みれば、全知の形式か母基盤は明らかでない。数理知による全比例の理解なのか、もしそうならどうして神が世界計画に偶然域を設けたか。また有限数をこえた認識が進法を用いない知覚にありえるなら、この予知も知能の対比たるのを諦める。普遍道徳のでき方は、実用で全知への望みな主観原則との合致点に返る。宇宙の己をとりまく現象が場所毎にそう想定させる全知の姿は、ごく違うべき。つまり神は民族神か種族の神を、少なくとも現世ではこえない。もし世代が合併か絶滅すればこの神らしさも趣ちがえる。結局、場所学識の主要な理由はこの種族神学か神話を生み出し、大多数の成員を同じ利害で結ぶことにありそう。信仰や道義、利他さの一切が社会淘汰の共有化された規則なのを観よ。地政ほか現象論の射程はそこで認知され得る全ての理性を意図して場所らしさへ返る。
環境適応の真の姿として神話の違いは現れる。理論が、自然認識へすら詳述の才を異ならせたり相互参照を興味深い学習課程とさせるのはみな場所に差があり、それらはこの宇宙系では違和しつけるのが通常か殆ど故。会話が理論に支配されるのは当然。だからそこで最高の理念も漸次異なりつく。