文学とは漢学色のつよい語学のことである。たとえば文法学、字学というべき分野も、統辞論や修辞法といった言語学または単に語学の部分集合であるのを省みよ。もし科学と哲学との間に何事かの便宜的な学があるとすれば、それは正に語学である。そして我々が明治のある時期以来、科学と分化させて仮にも文学と呼ばしめてきた学問じみた怪しげな形式とは、実に漢学風を引いた文面の各語法についての曖昧模糊たる研究論であるのを見よ。語学の方が少しなりとも体系立った社会学内での作業であるからには、文学というものは飽くまでも古代の漢文研究へ限られ用いられる方がよい。
文や字へ装飾過剰な執着をみせているのは象形から表音への淘汰が、科挙による文字文化独占の副作用によって比較的ゆっくりとしか起きなかった古代中国語と、その系統を引く周縁文化に特徴的な社会現象だとみなせる。
他の語文化では、知識の大衆層へのかなり急速な浸透によってそれらの象形や形声の手法はこぼれ落ちて行った。おそらく文芸家という芸術の士が貴ばれるのは、この語学を応用した表音成語の、書き言葉または文面への装飾職能の為である。そして漢字や漢文がほかより極端な装飾度をみせているとすれば、それらが有能な文芸家を長期に渡って保護してきた文治趣味による中華政権の一つの徳だったからだ。文学というliterarureから派生した異類の概念は、語学と工学の間に存在する文章論についての特殊言語学分野の呼称について当てられる。しかし、その精確な学的翻訳は欧米圏では未だに十分ではないだろう。その概念は日本及び漢語圏でのみ便宜上有効であるのみだろう。