2009年7月7日

国是論

宇宙の広大さ緻密さは人類という種の傲慢さ卑小さを如何に対比させても不足しない。人が大海原の前に立つ時、深い森林の奥であらゆるひそやかな生命の詳細な繁茂を見る時、星空の限りない物理的無辺を観察する時、社会と呼ぶ雑然とした魚どものたわむる河がどれだけの価値と意義とを有するのか論証するのも困難である。しかしながらどの社会人もこの河の外で暮らせはしない。社会性生物のどの個体も、その群生によって種としてまとまった行動規則を身に着ける。人類にあっては、その体系だったまとまりを国と呼んでいる。清流がやがて渓流を過ぎて河川となり、大河へ合流し海へながれつく様に、社会の夫々には秩序の高下が仮にも存在し、さらに集合の理由によってその個性が強度の専門に適合すればする程、個体数の希少価値と達成される清らかな秩序は集積しやすい。諺に流れ清ければ魚棲まずと云うが、現実の象限としていかなる清流にも住む生物はあるが、その数が希少すぎて極度に分化した組成でしか実在できないだけである。山女の上流には更に繊細な生態組織を持つ山椒魚が存在するかもしれないが、それは鯨と鮟鱇にとっての適所が異なるのと同じ原理でしかない。
 だから、ある国が大多数派への適応に欠けるかつとめてそれを避けるとしても、原理主義者がそれを非難できる謂れなどはない。上流に住む生態が深海のそれとはあまりに違っていたにせよ、その清らかさを原理主義者の旧態墨守の干渉で汚がしてよい訳ではない。単にこのむ生活様式や摂食用内臓の適合体制が異なるだけだからだ。
 世界が一つに成れなければならないと声高に主張する者はいつか裏切られる。というのも、物理作用は分化を欲しているので国の単位ですらその中では文明に発展が見られればみられるほどに極度に専門化した生態が多彩に存在するようになるからで、同等の徹底的微分化は世界国家とでも呼ばるるべきある種の人間原理的高慢にとってもまた真なのであるから。そして、異文明接触の活動は本質的に宇宙の無辺な生成消滅の不対な律動と起源を一つにする限り止まず、いいかえると波動は時間的には形態間の能動性、空間としては可能態変換の軌跡なのであるから、この国家間微分化自体には永遠に純閉鎖系としての完成はやってこないのだ。非平衡開放系の高度な可塑性に於いてしか社会系は評価できない。山戸と言われるべき思想型は、よってやはり移ろい変わらねばならないものだった。その中華文明の消化による大和思想への転換は思想型の進化として歴史的なものだし、更にこれが欧米文明との折衝により日本へと脱皮したことも現実態の完成へ向かってやむをえず又必然でもあった。それらはみな異文明との競合によって我々自身の国家体制を自己改造させてきた証拠である。
 だが又同様に、かなりの遠い将来に亘ってはもしくは、我々は日本という称号をも改善しなければならないかもしれない。理念としての国名がその集合体の根本思想を表明する銘柄なら国家にとって原理的基盤となるのがそれであり、したがって彼らが望む適所の種類に応じて時代なりの看板を立てる要請に当該社会設計は駆られている。
 もし日本国とされている群生の規律が全体としての世界政府、少なくとも現在で構想されうる所での国連政府にとって矛盾点が生じる様なら、日本人は自らその名分をより現実に近いものへと転換させるべきだろう。或いはその逆として頑として名義を貫くこともありうるが、海外では中国語からの翻訳であるJapan(ジパング国)という便宜的紹介にとどまっている以上は、可能性からすると低いだろう。たとえばUnited States(統一立国)やUnited Kingdom(統一王国)や中華人民共和国または中華民国に比べると理想についての主張という政治的建言の雰囲気が薄い。その先進国ではめずらしいほどの国是の淡泊さがいわゆる国粋の軽視によって外貌からは涼しげとされ、商用銘柄の上ではかえって利点になる場面も軽視できないが、覇権面からは飽くまでGermany(ゲルマン民族国)の様な趣味でしかないだろう。
 国とは群生による誇示の方式だから、如何なる理想を鼓吹できるかにその志気醸成への鍵がある。結局、この目的に向かって資本主義は道具であり、原理主義は手段であって、これらの適切な采配が我々自身の進退をより合目的な設定へ導ける。
 このどちらかの考え方にだけつねに片寄って歩を進めれば危険か暗愚かどちらかに陥る恐れがある。だが両面の中庸を踏み越えない限りは、決して国内及びその周縁文化への高い福祉の浸透による人間の幸福そのものを侵す事はないだろう。尤も、もし中道のみに固執すれば全体最適の社会主義化という弊害も免れないだろう。