2009年7月3日

裁判論

犯罪と呼ばれる行動には二つの法則がある。一つは結果説であり、もう一つは動機説である。
 もし結果説のみを楯にとれば、人々は如何なる行動も単に司法の手によらねば裁きえない。逆に、動機説のみをとればいかなる人物をもその言い分に応じてしか裁けない。現実の司法裁判は、この両方の境を曖昧にしたまま行われていると知るべきだ。善意思のみを重視する態度の温情なカント的裁判官も、結果の程度のみをとりあげる冷厳なホッブズ的裁判官も法廷ではしばし同居している。
 例えばまったく善意から助けようとした相手を殺してしまった場合、具体的には電車ホームで急ぐ相手の為にどいたところその故意の足に引っ掛かり転落死させてしまった場合など現実の裁判では、現行法では当然彼を死刑にするはずが、あまりに気の毒な結果から情状酌量という倫理的規制で無期懲役程度へ罪を軽減させることがある。
 逆に、きわめて悪辣な意図をおしかくしていながら平気な顔を装う者へは疑わしきは罰せずという冤罪防止の観点から、本来よりずっと直接の刑罰的償いが少なくなる場合がある。例えば涙ながらの迫真の演技で烏合の情緒に流され易い裁判員がみな欺かれたとか、いわゆる拷問と自白強要の禁止の原則の為に黙秘権をかたく守り通す場合、具体的には自らの本来のあくどい経歴を神妙な面持ちの戦犯や痴漢がなにも語らない場合、その心理的内面を推し量ることの困難さから明らかな悪意思で謀られた行動も、既存の最低限度の実例に即してのみ評判されることがある。
 結果説と動機説とは犯罪行動に関する是非ともありうるべき両面であり、原則として裁判官はどちらも適度に、或いは場合によってはどちらかを極端に持たねばならない。しかしまた、良心からの制裁の可能性を鑑みると、我々は動機説を結果説より基本として重視するべきだと言える。というのも、情状酌量の場合は結果について衆目の批評余地があるので誤った判断をすることは殆ど希にしかないが、裁判員という道義の素人を法廷へ招き入れようとする衆議の優位が主張されている環境では却ってその場かぎりの面倒を避ける為の倒錯した動機で、冤罪乱発への誘惑に欺かれがちになるのだから。いいかえれば事件の善悪を深刻に考えるのをやめ、道徳を問わずに、表面上の結果から被告を適法性だけで簡単に裁きがちになりやすい。キリストやソクラテスをその善意や本質的な啓蒙意図にも関わらずあのように誤って死刑に処してしまった過去の事例にも似て、我々人類が犯罪者というレッテルの前できわめて情念に駆られ概して近視眼に陥りやすく、自らが守られた多数派の側にいるという安心感はその非難の煽情へごくごく無意味にも加熱しやすいのを証明したのであったから。もしこの衆愚的扇動へのまれな例外の余地、すなわち歴史的に過った判断へのつねなる客観的批判の余地を残しておくつもりがあるなら、今では哲学者と呼ばれている良識を司る学問の階級へ少なくとも法廷外での言論の自由を確保しておくことが必要だろう。かれらによって後先どう批評批判されようと、直接に犯罪を裁く権利を裁判官の独立という普遍性ある職権として守られた司法官は、いずれ反省または参考するところあるにせよ、なんら職能上で迷うことはないのだから。ましてや行政府の人間は彼ら自身の大義名分、つまり行動指針の議論検討を絶えず行う重要な自由人層を失うべきではないのだ。孔子の言葉といわれるものに剛毅木訥仁に近しとある。これは善意の士にとって良心からの呵責がない場合、何も語らずとも刑罰は彼を苦しめるところがないという動機説上の知見とも受け取れる。