抑圧の社会学的誘因。原則として、我々が抑圧という措置を社会的に試みる時、それは場の誘因が増産戦略にとって不適だから。生態的に抑圧とは、甲にとりマイナスで乙にとりゼロとなる措置の事をいう。
もし完全に開放的で無限に進出可能な超大陸的適所があれば、そこには一切の抑圧は生じえないだろう。
一般に、我々が知っている各種の文化とは、抑圧された慣習を一定の規則のもとにまとめ上げたものである。だからもし完璧な理想的増産場が存在すれば、そこではどんな抑圧もない代わりに、最も低い種類の未文化性しか観られないことになる。きわめて長く隔離されていた南洋の未開の島国では性的抑圧がなく、そこに暮らす住民は文化というほどの現象を持たないのをみよ。凡そ外敵との戦闘および地域間の煩雑さの為の内部抗争の必要性の低さは政治活動を殆ど生じさせず、主としてそれらの間を道具立てとして援護する学術反応を無駄にする。
かなり高い段階の文化に到達した種集団では、極めて巧妙な昇華への誘因が恒常的に存在する。それを共食い的競争性を十分避けさせながら、一定以上の共生体の状態へ止揚させるときに文明という文化間のかなり体系立った生化学反応系がみられる。
これらの道理が社会学上の真理として遍く認知されたとき、我々は最大規模の文明を築き上げることに成功した系が、またかれらの抑圧の工夫が実際には高度の社会活動の切っ掛けとなったのを知るだろう。そして我々が社会進化する為の誘因として、高度に抑制された環境形質が絶えず好適となる系を挙げられるだろう。この面で、つまり人間的幸福の一切を犠牲にしてでも種的進化を求める一族がもし存在すれば、彼等は様々な文化上の工夫を通じてより完全な抑制を前提とした社会場を努めて形作るだろう。しかしこの幸福はいずれ我々が猿の幸福を見るのと同等の概念となるのがほぼ確実である。繁殖活動というものはおよそ人類に考えられる限り最も下等な生態機能なので、この誘因への徹底的な抑圧は何れどの上級生にとっても当然となる。そして初期からの住み分けで下級生との生態に差を設けることは両者を混濁させて育てるより進化にとって遥かに有意である。階級分化そのものはよって、善なる生態を擁護する為の初期段階の重要な抑制習慣なのである。
仮にこのような措置を慣習化しても、我々の本能には退行という有能な心理的規制が平衡装置として知らずしらず備わっているので、そもそもの遺伝に系統の中性化による生殖能力の致命的な減退がありうる場合を除いては、如何に高級な知的能力を可塑性の上で達成させても決して行き過ぎという事はないばかりか、かえってそれが互恵化する種内貢献の為に彼等の総合的経済容量をも増大させるであろう。「男女七歳にして席を同じくせず」、と曰った古人の判断力はやはり道徳上きわめて優れていたのだ。もしそうしなければ生殖系統の混同はかれらの生殖能力そのものを次第に減退させて行き、やがて種集団自体を衰退させてきただろう。