2009年7月20日

進化形質の論理

我々が人類という一過性の経験を通して悟るところによれば、将来の世代では極めて大な幼形化の為に我々がこれまでの世代で経過してきた文明の記憶は無くなるか、又はごく微少な期間をとってごく初期の胎生から成長の時期へ省力化して繰り入れられるだろうと。そしてこの記憶は、種内進化に必然の徑緯をとる。具体的には、現生人類の少数派では野蛮時代の痕跡として恋愛という現象が看られる。自然的配偶の侭ではその集団の変異は中庸に固定化するので競争的不利さから、彼らは何れ精神疾患の不適応的症状として治癒の対象になっただろう。そして最終的には改良されなかった種集団は消滅しただろう。
 巨劫な地殻変動や惑星衝突、異常気象及び地球外進出が身近に起こる場合を想定外に置くと、確実に惑星内で寡占的となる人種は配偶効率を進化法則へ適正化できた一派を中心とする。もしかなりの環境変異があったとして、幾らかの生態地位のいれかえが起き、代わりに星外進出が生じたとしても尚その種族の優位さは大きく変わらない。なぜなら固定化を最大限に避けた高い可塑性は未知の場合での適応変異をも蔵する確率が最も高いのだから。単にその中途段階で多少の拡散及び収容速度に僅かなばらつきがあるだけである。
 これらは最も端的に表現すれば、未熟の促進によってのみ人類からその種内進化が生じる証拠である。我々が獲得してきた文化は相当に多様なので、成長の遅延により生涯に渡り未熟さつまり学習可塑性を十分に保ってあったとしても殆ど困る所がなく、寧ろ維持された進歩にとり益する。未熟児と言う時はある成長阻害の症状を指す場合が多いのでより汎用的に表記すれば晩生の形質はみな進化の見地からは好ましいものとなる。
 成熟と見做される形質の傾向はすべて成長速度の促進へ働き、結果として繁殖期を整理してつづく世代の形質を益々早熟させようとする一般性の元にある。よって、この傾向からは如何に待望しても、新規な形質は出現できず単に既に知られた行動型が素早く既習されて示されるだけである。現生人類の殆どは多かれ少なかれこの作用を背景として、過去の世代が獲得し得た芸術をかなり若い又は幼い段階で習得済みとする。例えば絵を描くこと、文字を書くことは極めて遠い過去の世代で一部の天才種によってのみ営まれた新奇な芸術行為だったのが、普通の幼児でもそれをコンピューターを用いて再現する場合、この形質整理が働いた結果となる。
 遺伝的変異はその方向性が十分に晩生なら特有の進化場で保存され、又のちに増産されて新種集団を形成する。我々が今経験しているどの社会活動も、将来の我々か混合の可能性を含むそれを駆逐できた世代では既習済みとされ余り省みられることもなくなるだろう。狩猟採集時代のリクリエーションがその社会での貴重な資本獲得の誘因よりも大きくなることはないのは、我々が産業の生活を主要社会活動としていた過去の現代を趣味的に、退行の擬似行為による慰みにしか感じないのと同じ。