2009年7月13日

ユーラシア・クロスロード構想への私見

自民党首脳の先月末に講演会で示したユーラシア・クロスロード構想について。

 かれらの目的が憲法の命ずる名誉ある地位よりも商業的覇権にあるのなら、この方向性はなるほど、バイタリティが特徴のしぶとい華僑に先駆けるユーラシア大陸の開発権益にとって必須でもある。

 だがこの提案は‘経済’という一部の階層にしか興味のない作用をあまりに高く見積もりすぎている点で実践可能性からすれば空想的でもあり、なおさら人様の土地への勝手な線引き評論を語るなどは一国の事実上の元帥たる責務義務の重さ、口から出任せ等々の地球的に及ぼす後々までの影響度から言っても言語道断である。
たとえば、インドとイスラム圏およびペルシアとエジプトは我々漢語文化圏のいわずもがな持つ儒学の風土を持たず、きわめて色濃い独特の宗教色を持つ点で決して経済協力だけでは一体化できる地域ではない。かれらとの根本的な一致協力の為には、平均的日本人が想像を超える「宗教観念の一致」が前提になければならない。
 経済協力は援助と互恵によってはいくらなりとも可能だが、それをすこしなりとも政治問題へもちこむことは十字軍時代から根を引く執拗な強豪との無間地獄的部派抗争にいやおうなく参加することをも当然意味する。だが、国家戦略としてはこの問題に触れるのは禁忌でしかないのが確かだ。ユダヤ教問題はいうまでもない。

 国連決議を中心とした、いままできた正道を堂々と通って政治を行うべきである。一見おもしろそうな裏道、予想外の儲けがありそうな一応適法だが道徳的かは疑わしいうまい抜け道にはそれなりの落とし穴があるのではなかったか。
すこしばかりのわるぢえなら見抜かれるおそれのすくない一時のあさましい商略ならまだしも、世界史の筆跡にうらおもてなく完全に刻まれる一国の大道を推し進めるためには、全時代の誰もが衆目一致で納得する大義名分がなければならぬ。

だから、自由圏にとって繁栄の弧を描く範囲は飽くまでも我々が戦前戦中予てよりの計画として全面的責任を取れる地域、大東亜共栄の的つまり『太平洋沿岸部』に限るべきである。
なぜ近傍への開発を大前提とするかならそこに暮らす人々には古くからの漢語文化という共通項があるので、意思疎通も和を講ずるのも相互理解と民族間協力作業にとって、他の地域よりずっと容易だからだ。立派な基礎のための足場がまずなければ歴史にのこるほどの城郭は築けないのではないか。
――たとえば仏教徒の多い殆どの日本人には蝿を扱うような、あるいはなにもしないお上を仰ぐようなカースト制度下での奴隷操作的貿易発展へ共感も肯定もしづらいだろうし、必ず自発的に払いたくなる喜捨税や日毎の厳しいアッラーへの礼拝についての本能に染み渡った習慣もない。
そして昔ながらのペルシア文化と外来的回教との民情における根源的な不調和への理解もそこからずっと遠い場所にある違和感から一民族状態として十分とは考えられず、誇り高い西洋古都としてのどこまでも豊かなナイルに恵まれたエジプト民族に敬意を表し貢ぎ物をする分には、日本人はあまりに勤勉で廉直すぎ、自助的経済発展に馴れきっている。

だが我々が‘勤労の義務’というもの、その勤勉趣味的行動規則は農奴生活の長くなかったどこの国民でもおよそ自然のありかたではないのである。

勿論西洋史上では最も複雑な身分にあるユダヤ人にとっての選良主義きわまる宿命思想に帰依できるだけ自尊心の完成された、労働集団の過半数な倭人など幾人いるか知れない。
つまり我々はかなしくも飽くまで、異民族だといえる。

 彼ら中東や東洋の個人にとってみれば、まるで縁のなかった極東の奇怪な風俗をもつ商売好きな一族は単によそ者、あるいはもの珍しい異邦人であり、かれらにとってしてみれば古くから土着してきた自国界隈の発展や展望についてただのガイジンに命令されたり指導される謂れなどまるでないのである。
某新興著しい単独行動主義国の民族精神ほど拙速の気象になりきれるというなら話はオフレコとなる。又、手痛い原爆投下による敗戦をこうむった国民には、英国や中国ほどみずからを完全無欠な独裁者向きの覇権国家と信じ込めない。ことごとく、衆議を尽くさないで決めた独行の国策はそれが個性的で性急すぎる危惧のゆえにナポレオンの英雄主義や関東軍参謀のあさはかな体育会系知能にも似て、総合的大局観についてはまるで誤りやすいのである。

要するに、“外政干渉”については最大限の注意を要する。原則的に、このナショナリズムにとって最大限にデリケートな部分に触れる行動は、当該国連登録政府から許可された範囲での「営業の自由」にかぎってしかまだ普段には常識ではない。
(五輪の際に起こしたカルフールその他の外国や多国籍企業への中華民族の強烈な報復や誹謗中傷を省みよ。資本主義の慣習は一部の寛容な自由圏をのぞけば決してまだまだ普遍的ではない。)
 無償有償のおおやけの経済援助をのぞけば、我々どこの馬の骨かしれない地方人にとってはおとなしく、彼ら大陸大文明圏の偉大なる人民をかれらからの要望に応えるかたちで我々狭い国土民なりに器用な製造業のつよみを活かした間接協力によって支えることこそ、もっぱらの国際政策上本道といえるのではないのか。

『縁の下の力持ち構想』こそ、わが国の、またとこしえの君が代にとっての名誉ある地位に今日なりにふさわしい限度であると思われる。
 もし、現自民党代表が構想しておられるがごとき大胆にして縦横無尽な大商略をはかりたいなら、我々日本民族の血統書の信用に関して未来永劫にわたる全責任を負う一国代表の立場という慎重すぎるほどの慮りを要した不利な職権からではなく、一個人としてわたくし企業のあきないごととして謀るほうがいつでも好き放題で、またかしこいことだ。