2008年2月26日

大学改革案

現行日本の教育制度の問題は、その学費をほぼ全く生徒の家庭に依存させることで学問の努力にいわば足切りを設け、裕福でない家庭の子女へは高等教育の機会を事実上で閉ざし、社会の内部に新たな世襲貴族の身分たる学歴制の階級固定を暗に垂れ流しにしてしまっている事にある。この様な矛盾はやがて世襲組織の腐敗として、例えば人倫を破っても法的に安全なら主権者たる民衆を欺いてなんとも思わない天下りなど、先進国の社会とは口にもできない悪弊をもたらし、結局は民衆の利潤を阻害しながら文明の展開に逆らう重荷であるところの学歴偶像をみずから奉っているのだ。不幸の源がひとえに、教育機関がいわば企業予備校の手形として発布するところの学位の不当な利用に基づく。
 これらの弊害を浄める為に先ず教育改革に必要なのは、富裕ならざる家庭の子息へ学費の免除を制度化する事、すなわち奨学制度である。しかしながら、実際には、学閥の偶像化という貴族政にありがちな癒着固定によって、一流とされた大学へは入学志願者が殺到し、そこで極めて科挙的な、現実とはあまり関係をもたない大量の知識に既存の正解を求める便宜が諮られているのが実情だ。これを極東風に形容して入学科挙と呼びうる。そして実はこの為に特別な受験予備校と呼ばれる学校さえ存在し、科挙それそのもののための特殊な技法とされる科学そのものとは無関係な無駄を商売し、更にして老若男女この予備校に通うための経費は私立大学の学費に匹敵するほど膨大なので、結局は富裕な子息しか名門とされた大学に入学はできない仕組みになっている。
 さてまた我々は面白いことに、このたぐいの入学科挙の合格をもって何らかの達成とみなし、祭りのようにして祝うことさえある。かくの自己矛盾は恰も民族全体の狂信である。彼らは学歴制にまつわるところの入学科挙の段階を以て一時代の偏った風習に安堵し、その後の本来の目的たる学問は入学科挙の段階で修了したかのように遊び散らすことを社会的に容認しさえする。学生とは、現代日本語においては、まるで学問とは無関係な遊びの切符であるかの如く形骸化しきった有り様であり、我々はこのような腐敗した教育制度を以て断じて文明の終点だとはみなしえまい。
 曰く、この脱構改革には先ず学費の無償が大学の大前提とされなければならない。当目標が達成されない限りは、大学教団は学歴制による身分世襲固定化の頽廃をいざなう、いわば社会に不幸の格差拡大を与え続けている元凶と揶揄されても反論の仕様がない。
 凡そ福祉国家の公立大学においてしか理想は達成不可能に思えるかもしれない。又同じく私学という会社形態においては入試費のみならず普段の学費は主要歳入であり、組織の持続的経営を目的とする限りはその学体規模が大きなほど無償化は困難だろう。この場合、経営陣の自助軽量化以外では主として寄付献金という方法によってしか学費負担を軽減することならないだろう。我々は目標への行程をより進み易くする為に更に工夫を要する。ここにおいて、専らの漸近策として公立図書館の充実という仮設が必然となる。無償の独習機関を援助支援する事は、富裕ならざる生徒の学問の努力を底上げし、世襲化された学歴体制の批判を通じた国情の自己改造を調整しなおす仲介となるから。