日本の企業は身分差別たる《学歴制》の不問を大義名分として掲げるべきである。
Entry sheetいわゆる履歴書に最終学歴を書かせる風習はすなわち、民衆の自助努力を不当にも迫害する〈見えない網の目〉と呼ばれる。
およそ大学院生が教育または科学研究の機関以外にとっては、現実離れした世間知らずな認識の持ち主としてむしろ疎んじられるのは自然だろう。
[この点で我々は、大学院教育をむやみに奨励する韓国の社会体制を反面教育にしうるだろう。
少なくとも日本において大学院教育とは一般教養的な性格をふくむ学部教育とは違って、研究教育としての専門的方法習得を目的とする。]
学識をそれ自体のために学究する能力は飽くまで理論または実践理性の長所を示すに過ぎないのであって、技術理性すなわち人間感情の長所をも併せもつかは未知数でもあり、おおよそにおいて現実社会に平均的な能力を要求される一般企業の経済的生産労働に関しては逆に、理想の高さから挫折や失敗の起因にもなりがちなのは仕方ないことであろう。
そしてこのような、仕事の手慣れに時間のかかる人材をじっくり育てるだけの余裕がないような中小企業にとっては、むしろ高過ぎる学歴は邪魔とみなさざるを得ないのも理由がないことではない。
かと言って様々に複雑な活用をこなさねばならない企業にとっては採用決定にあたり指標を要する。
[内部出世は適性の検査を行う機会がある以上、官庁のような単に形式化された作業でない限り、何らかの緩和があるべきだろうし、またrestructuringなど絶えず能率向上の自主改良は行われざるをえない。
およそ営利企業にとって〈ただ乗り・free rider〉は人件費の最たる無駄であるから。]
はっきりしているのは、大企業ほど早く学歴差別を撤廃自浄しない限り経営効率は改良できないということだ。
なぜなら世襲化された学歴制において行われる差別によっては、正しい、能力による人材の区別がつかない。
このような能力による出世こそ、新たに企業を復活させる唯一の方法なのである。これを『能力の検査』と呼びうる。
理論理性や実践理性がそのまま技術理性の所在たる経済力、すなわち労働能力や経営効率などではない。それらは原理的に別種の上級認識能力なのである。
専ら営利企業は学歴不問を看板に掲げ、『能力の検査』を内部化しながら新たな栄養を摂取しない限り、その本性から言って固定階級化され内部から腐り滅びていく。
以上を考慮して専ら、大体の企業にとっては「試用期間」と「学歴不問」の原則によって能力検査の方式を次第に内部導入し、不況を乗り切る経営合理化を果たしうるであろう。
全く役立たない者のみならず、学歴制にただ乗りして来た無学なお坊っちゃん、また女権濫用によって肩書きだけは立派に飾った偽社会人を能率よく淘汰する為にも試用期間は必要となる。