2007年2月7日

国際競戯の体制学観

一文明外に於いてさえ文明三位の批判原則は援用されねばならない。国際関係間に互い違いの役割を付与しない可ではない。我々は政治的覇権を経済や学術のそれとは乖離させる丈の狡智に長けない理性ではない。国際連盟に由る結束の鼓舞のみで覇権の癒着構造を破壊するのは不可能ではないのか。超大国は独裁政の維持が為、他の諸国から文明三位の地位を引き離そうとする。いわば恩寵と奉献の権力偏重が、世論から隠蔽された国家搾取的暴力を導く。国際侵略は知能犯化されている。合理化の為に大義を偽造する弊は国家間世論格差の歪みとなって顕る。
 国際権力の均衡への現時的漸進策は他ならず、この文明三位のずらしに因る。例えば、我々はフランス革命の担い手が政治、あるいは経済的には劣ったが、学術において実権を握った啓蒙民衆であった、と後学の為認知する。
 覇権は掻くずらしの方法によってしか減退させ得ない。しかも、社会の自然は必ずや金嘔無欠な体制を作らせなかった。言い換えれば、自己衰微の計画は一文明の循環律のうちに含まれている。永久繁栄は生殖的進化の中にしかなかったろう。つまり、社会体制を産業水準に応じ革命させるかぎりの繁栄。従って、ひとつの体制はある期間を経てべつの体制に交代される。これを時代の変化と呼べる。
 とすれば、超大国と云えど必ず転換期は来る。かの三位の何処に欠損があるにせよ、我々は実権と名分の逆転を以て国際社会革命を可能にするだろう。そして欠損なき国家生体は単一体であるが故に遥か永遠に存在せず、結果、あらゆる国際関係はその権力的均衡を全国の自主連盟加合、自然権の体制奉還まで相互独立しながら競戯する。この国際競戯複合体のうちにこそ我々の体制学的適応力養生はある訳だ。