2006年2月28日

憂い

なぜ世界に産まれたかも知らず、中小作業に没頭し、その子孫を何らかの為に殖やし、けれども喜怒哀楽の欠片に或いは理性に、何らかの目的、大抵は文明とか予定調和といった様な取るに足らぬ思想への過程を細々と生き延びて、偉大な業績や輝かしい成功とか亦は非常に馬鹿らしいことだが、ある風の女であれば幸せな家族とかいった命の実刑に浴してふわふわと過ごしては去っていく魂。
 いや、魂などという抽象名詞は似合わぬ。要するに脳が膨れ上がった不気味な猿の頭だが、そういったものを大事に大事にまるで何か面白いおもちゃを手にした幼い子どもの如くこねくり回しては又、限りない欲望という計画へ従事していく。博愛とか慈悲とか、神の思考とか理想美の顕現とか、無限の進歩とか永遠の福祉の促進とか何かそういうつまらない考えに奉仕して殉教していく無数の兵隊。
 人間は素晴らしいと言う為にはあまりに俗物だし、あまりに悲惨でむなしい。そういう二足歩行も誇らしげな、さぞかし頭のあるらしい生き物たちが唯一望みを懸けている聖なる科学方ですら、一種の神がかった知能発達遊びに過ぎないと誰かが指摘するまで気づかないだろう。
 古代ユダヤ人の神話に診られる抜群の想像によって罪という観念を人知に植え付けたのは正解だった。なぜかなら、そういう幼児化した猿達が何らかの栄光、愚かしさからの救済に到達できるとすれば、馬鹿と殆ど変わらない自分達の堕落した境涯、地獄からどこまでも脱出しなければならないからだ。
 しかし、彼らはまた創造主という奇妙な妄想を発達させ定理づけてしまった以上、信仰への信仰を捨てない限り宇宙を理解する機能は自然に出でたる精神作用にしか属さないことを理解しない。人間の神聖たる宇宙精神。そしてその立派な種子を、文章にでも情報記号化して遥か未来へ伝えてくれ。