2006年2月19日

一神教の止揚試論

旧約聖書たるユダヤ教は自然状態を最良とし、
我々の生物学的進化の結果を「罪」と見なして否定する。
そこに道徳の根本泉がある。

ところで新約聖書たるキリスト教は──jesus本人の意志によれば
絶対唯一神からの愛のもとに万物は平等であるが故に、内容的な隣人愛の実践を説いた。
 後世にjesusの磔(はりつけ)が「原罪」として再び
ユダヤ教風の道徳的反省の種に祭り上げられるまで、
このような普遍愛の思想はその極度に単純な原理「愛」によって欧米世界の人間を席巻したのである。


 ところでイスラム教創始たるマホメットは絶対権威を改めて設け、
ユーラシア大陸南岸内部に根付いていた輪廻の思想を利用し、天国と地獄の選択の前に無知な人々を回心させ、
堕落した土着多神教からの離脱を図るべく、聖戦に赴く武力暴威を正当化した。
ここにイスラム[唯一神への絶対帰依]世界が誕生した。


 ところで我々地球人が『神』と云うとき、一神教信者にとってそれは超人間性を指す。
ならばどうして神が我々同士に殺し合いを方便づけるのだろうか。
 信仰の有用さと狂信の害毒を目の当たりにして人類は、何を頼りに生き延びるべきか。

 もし至聖たる信念が未だ世界にあり得るとすれば、ガウダマ・シッダールタが語り始めた『慈悲』にあるだろう。
ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒もみな縁起する無常の心象に過ぎない。
それならどうして彼らを憐れみ、恵みたまわないのか?

 この世から苦を除き、楽を与えなさい。
欲望中庸の境遇に至るまで、苦楽の両端を避ける内省の修行を続けなさい。