2024年5月17日

俗跡と聖跡

どんな悪人も必ず死に絶える。
 生前、差別発言を連発して猟奇小説をばらまき、姦淫小説屋をほめちぎるなど散々悪業三昧していた石原慎太郎都知事は、呆気なく死去し、かえりみるものとてない。

 たとえ茂木健一郎が滝波ユカリやひよこらと展覧会弾圧をはかろうと、刀エッジや滝口らとコロナ禍賄賂五輪強行で冤罪バン攻撃を連発し、あしきSNS界にのさばろうと、死後は呆気なく、永久に忘れ去られる。
 たとえ成田悠輔が大量虐殺論でひろゆき一派とのさばろうと、死後は誰からもかえりみられない。

 悪人達の記憶はまるで思い出したくもない不快な記憶として、誰にとってもかえりみる価値がない。もし記憶にのぼるとしても、その記憶は反面教師としての意味しかない。
 だが聖人達の事績は、恰も泉の様に絶えず人々の訪れがやまない。徳高き人々の存在は、俗人だらけの世界で唯一の救済措置だからだ。