悪女は貞操を知らない。それゆえ自他を不幸せにするため存在している。
良い生まれ育ちの人にとって、不貞な悪女や悪男が理解できないのは、異なる家風の者の間ではうまく交流が成り立たないのと似ている。
なぜ紫式部や綿矢りさといった姦淫小説の書き手を恥知らずにも称揚する者が関西地方や東京都にはいるのか。それは彼らが総じて貞徳をもたない集団だからだ。本居宣長、小林秀雄、茂木健一郎らは姦淫話を主情主義で賞美したが、それは彼らの私徳の欠如を意味しており、要するに当人達も悪男だったのだ。
物の哀れとは悪徳賛美である。だからこそ、悪男悪女にとっては共感も理解もし易い。ところが善男善女にとっては違和感しかないし、寧ろ同意してしまえば自他を不幸せにする悪い仲間の一員になって堕落するにすぎないので、批判対象となる。
茂木はひよこと名乗る米国への日系移民と一緒になって、藝大美術館の大吉原展を弾圧し続けてきている。彼らが表現自由権の侵害者なのは無論、茂木一派の称揚してきた物の哀れの論理は彼らの言説では常習的だがまた矛盾をきたしている。江戸や東京町人の性道徳以外の観点でなぜ浮世絵を非難できるのか。
茂木一派の欧米出羽守ぶりは今に始まった話ではないので、今後も暴走を続け機構の自己矛盾で大破するに違いない。
外聞を飾り、一見女性主義のまねをしながら、性被害自殺未遂話である『源氏物語』や性被害正当化話『夢を与える』を読めも読みもせず大賞賛する正真正銘恥知らずの茂木一派は、既に悪徳賛美のミーハーとしてしかなんの信用も置かれていない。
ご都合主義の論理を使い欧米側から日本を陥れ、また欧米側ではでたらめな日本凄い論で売名する、自文化植民地主義仕草による二重基準の文化盗用貿易稼業は、文化人類学的視野や国際的誠実さの観点からもまことに惨めである。