2024年4月24日

日立文明の独歩論

僕はあんなに性格が悪い人々が大勢生きているなどとは、全然知らなかった。それはインターネットではじめてわかった。特に、西日本の人々は完全に異国や異民族といえると感じた。余りに性格が悪いし、民度物凄く低いと感じた。

 実際僕は自分の地元がそんなに民度が高いなんて全然思っておらず、どちらかといえば外国にはもっと立派な所が沢山あるんだろうという風に感じていた。しかし、現実はまるで違って、むしろイングランド北部のニューカッスルの人にこういわれた。「君は日本からでない方がいいよ」、と。その意味する所は、僕が思うより遥かに地球社会は民度が低い筈だから、という事の様だった。もしかすると実際そうなのかもしれない。

 少なくともイングランド自体には、確かにそう感じる面が色々散見された。けども、西日本だとか南関東だとか、中部だとかははいうまでもないのだが、あるいは東北の一部だろうと、北海道だろうと沖縄の一部だろうと、また群馬とかにも、少しは似た様な感じを受けた。
 僕の生まれ育った北茨城の文化と最も近いのは、水戸や日立、あといわきだろうし、栃木にもある程度似たところがあるのかもしれないのだが、大体、やはり旧水戸藩といわれる領域、つまり、茨城県の中北部の文化といわき市の文化というのが一番自分のそれに似ていると感じた。あたりまえといえばそうなのだけども。大体、自然というか気候が、子供の頃から住んでるからもあるとは思うけど、ここが自分には一番心地いい。総じて涼しいし、どの季節も快適だ。しかも自然がとても繊細でうつくしい。

 自分はそれでも、僕の所が世界一の大文明だとは、基本的に思っていなかった。明らかにひどいと思える事も色々経験したからだし、必ずしも理想郷だと感じたわけでもない。しかしながら、総合点だと、なんとここが世界一なのかもしれない。特になにが優れているかだけど、特に道徳性なのかなとおもう。水戸市が一番立派なのかもしれない。一つの理由は、水戸の徳川家がそれだけ偉い人達だったのだろう。領民がそう思うだけのものはあった。現にそうだとおもう。徳治主義を本気でおこなって、実際に成果があり、住民にその気風が伝染した。だから、僕らが外の社会にでてみると、みな僕らより不徳な感じの人々ばかりで呆れてしまう事になる。日立の国の最大の長所が道徳性だとすれば、その点をもっと伸ばす様にすべきで、失うべきではないのだろう。

 外国人観光客とか、素人が多くて、何もわかっちゃいないのだとおもうのだ。僕は何度か山の後ろの国こと京都と称する観光客に大人気のところへ行ったけど、やはり余りいいところとは思えず、むしろがっかり観光地と感じた。下品だからだ。寺って飾る様なものじゃないだろう。歪んだ三流仏教を有り難がる外国人は無文化といっていいとおもう。僕は民家のおもむきでパルテノンの様な古典的構成をもつあの立派な佇まいの佐竹寺に一番感動した。それはたまたま僕の県にあったのだけど、ひいき目に見ているのでは決してない。仏教精神かくあるべし、という一つの模範解答だと感じた。釈迦は民衆の間にきて、単純なことばで彼の悟った真理、あるいは解脱思想を説いていた。寺って、その場のことのはずだから、民衆の心の拠り所として民衆の間にあるべきで、豪華に飾ったり、装飾に凝ったりは、どれも俗坊主の腐敗宗教の証にすぎず、その点で、山後は全部がダメで落第点だと感じひとつも感心できなかった。
 ほかの点でも、はっきりいって悪趣味さが感じられ、精々中国のまねだなと感じた。総じて、山後は住民にも街にも性格の悪さが感じられるし、俗物根性の証ばかり自慢されて、嫌な感じがした。そのくらい、僕と山後は相性わるいのではないかと感じる。もう2度と近づかないことにしているのだけどそれでいいのだとおもう。

 僕は好みというのはその人の品性を示す、かなり重要な世界の要素だと感じているが、こと山後が好きだとかいっている外国人とか、日本人もだけどその時点でかなり激しく軽蔑感を感じるので、一切かかわらないか取引せず、距離を置く様にしているけども、それは、山後の住民があまりに悪業三昧しているのをあまりに多く見かけた事があるからが一番大きい。自分も一被害者だ。しかも平安時代の文献をちゃんと読むとなおさらそう感じることになる。本当に陸でもない人々が、僻地に移民してきてしまい、そのままあの意地悪地獄を千年以上も偽中華都市だと抜かしてきたのだから、それは性格だってそこに長居すればするほど歪むだろう。近づかないにこしたことはないのだ、人権のない貧民窟なんて。いまの京都市内ですら差別をしあっている。民度が極端に低い。話にならないというべきだろう。

 色んな西日本の人々と会話したのだけど、ネットでが多いが、はっきり言ってどこも茨城県に比べて大分民度が低い様に思われた。そうである以上、僕の県は特に西日本とつきあう必要はないのではないかとも感じた。一々、同じ日本へ編入されてしまっているからといって、まぁそれも水戸の会沢安さんの『新論』での国体構想によるのだけど、日立は単体で充分立派なのだから、その点で、独立して孤高でいるべきなのではないかと思う。
 今後は、僕自身も極力頑張るけども、外貨を稼いで、これまで以上に日立の文明を高める事にすればいいのだと思う。