2024年3月25日

人為の業の点数式

暫く前にオヨという人が話しかけてきた。X民だ。この人はなんか不良的なものを庇おうとしていた。それでつっかかってきたわけだが、よく話をきいてみても、はっきりいって道理が通っていなかった。要するに悪人正機説を自分なりに再現してるみたいな、車輪の再発明をしてた様子にみえたが、そもそも自分が投稿したXの文が、その悪人正機説の誤用という事を、唯円の手になるのかもしれない『歎異抄』と同じ文脈で書いてるので、彼はそれをも読めてなかった。というか、彼はその投稿自体の短い140文字以内の内容をまず読み取れていなかった。これに僕は大変困ってしまった。
 彼に限らず、ああいう感じでXで絡んでくる人というのは、殆どが国語力が激烈になくて、そもそも文が読めないという事がよくある。自分はこの事にほとほと困り果ててきていたがまた一つその憂いがふえた結果になった。色々説教してみたんだけど彼はいきり立つ様な感じで逆に僕を中傷しだした。要するに自分は得失効果(ゲイン・ロス効果、gain-loss effects)の心理詐術に騙されない様に、普段から善行を心がける様に言っていただけだったが、彼は悪人正機説にこだわって、一種の大逆転的なものを庇うつもりでいたわけだ。
アロンソンAronson E.とリンダーLinder D.は、ゲインロス効果gain-loss effectsとよばれる現象を報告している。これは、一貫して好意的評価を受けるよりも否定的評価から好意的評価に変化した方が魅力を感じ、否定的評価を受けつづけるよりも肯定的評価から否定的評価に変化した方が魅力を感じにくいという現象である。
――対人魅力(読み)たいじんみりょく(英語表記)interpersonal attraction
最新 心理学事典 「対人魅力」、コトバンク
思うに、たしかに親鸞はその種の大逆転がありうる、という観点も持っていたのかもしれない。しかし唯円らがのち語った様に、その種の思想は誤解を大いに招いた。だからこそ『歎異抄』という、親鸞思想の一般解説書を書かざるを得なかったわけだ。この点について、自分はその投稿で一言だけ触れていたわけだ。しかしオヨという人はその部分を読み取る為の国語力と基礎学力が欠けていて、一種の誤読に或る種の悪意を上書きしていた。正に彼の様な人が出てきたから唯円ら弟子が困ってしまっていたわけだ。そして親鸞自身も、後でカバーすれば普段から悪行していいみたいな意味では、悪人正機を語っていなかったと思う。反省する度合いが深いほど凡夫たる自覚が深まり、知的謙虚さに近づくのだ、という一種の修辞術を使っていた箇所だけにこだわると、そもそも親鸞が何を言いたかったのかわからないという事になりかねない。そのなりかねないどころか実際にわかっていなかったのが、オヨさんだったわけです。
 
 僕はとても疲れてしまった。
 彼を説得しようとしたわけだが、どうも無駄そうだった。こういうことはいつも起きる。ネット上だとよく絡まれるわけだが前からそういうのが面倒だから、極力接触を避けてきているわけだ。構っている時間がない。

 そのとき自分は一つ工夫をした。これは後世にとって確実に意味がある言説なので、ここにも書き残す。それは道徳の業、あるいは自然の業と分けて、「人為の業の点数式」を使った事だ。
 普段から善行をしていたら点数がふえて、悪行をしていたら点数がへる様なメーターがあるとする。それをとにかく増し続ける事が、いわば善業なわけだ。普段から善徳の人物は、日々善業を積むので、たとえば100点をこえていたとする。それで偶に、間違って軽い失敗をしてしまい、減点になっても、癖が善いので、そこまで悪い事をしなかったから、またすぐ自分に反省しておこないを直したから、総合でその時点までで95点だったとする。
 他方で、或る悪徳の人は普段から行いが悪いので-150点になっていたとする。所が遂に反省して少しは善い事をしようとしたが、癖が悪いから、なんとか頑張っても-95点にしかいけなかったとする。

 この2者を見比べると得失効果では、悪人正機説のバフもあって、後者の不良の方が、前者の聖人より偉い、みたいに見られがちなわけだ。しかし、世の中に与えた影響からいうと不良は点数式なら大幅にマイナス、聖人は大幅にプラスなわけだから、総合点だと聖人の方が善い事になる。

 この事を自分は140文字以内に凝縮して書いておいたわけ。
不良が改心すると得失効果で過度に褒めちぎる人々は心理に欺かれており、総じて善良な振舞いをしてきた優等生といえる人々がなした社会貢献に対し、相対的に余りに不当な扱いをしている事に気づかない。悪人正機説の乱用も同じ事を示し、本来、不良の普段の行いが悪い事自体が最も悪いのである。
――私
2024年3月15日『得失効果の欺き
 ここでいう「悪人正機説の乱用」ってのが、要するに業の総合点で-95点の不良の方を高く見積もりがちな、偏見を指す。だからね、或る意味では唯円の手になるのかもしれないのだろう親鸞思想の解説と同じ事を僕は、別の最近の心理学の効果と照らし合わせ、再定義しているともいえると思う。客観的には95点の方が明らかに良いわけだ。しかも、聖人は最初からおおかれすくなかれ苦労して善行を極めようとしていた筈だ。善行ってやってみたらわかるが大変なものである。自己犠牲なんだから基本が。善行すればするほど虐げられるという事が当然起きる。凡愚をかいくぐって、或る意味では妨害を打ち払ってまで善行し続けないと――まぁ中庸が最善の事があるとはいえ、基本的には聖徳以上をもっているひとならわかってくれるとおもいますが――無理だ。それは大変な登山みたいなものなので、並大抵のことではない。善業の点数に限界がないとすれば1億点とかあるとしても。普通の人が0点前後をうろちょろして一生おわるみたいな前提の話ね。

 この点数式の業の判定は、倫理学的に新しい議論なのできっと後世に残るし、役にも立つとみる。
 ちなみにその議論の時、ほかにも絶対的な善行としてカントの定言命法とか、動機説と結果説の違いとかも引いたけどね。質的な判定をするときは、その種の定量判断ができないかもしれない。

 一ついえるのは、なぜ得失効果の偏見があるかという事だ? これはエリオット・アロンソンとダーウィン・リンダーが1965年『対人的魅力の決定要因としての尊敬の獲得と喪失』で定義したこの心理効果とやらの原因自体の議論であり、まだ自分はその種の原因論を読んだ事がないからここで書いてみよう。仮説を。
 思うに不良がちょっとでもよいことやると途端にほめるみたいな現象はたしかに、子供のころから多少あれ観察された。特に、その種の不良階層同士は、それを種に発情して繁殖してる様子があった。だからなにか本能次元にくみこまれている可能性を感じる。悪人の中に僅かな善い要素をみいだすという事は、実は御都合主義の偏見なのだろうが、その結果、一般に、悪男悪女が繁殖するという結果に至るのは、社会的な負の影響が大きいと感じられる。たとえば重大犯罪者同士だってその種のつきあいで繁殖しかねないのだから、普段から善人側はその種の人々への社会保障費で、被害を受け続けるといった現象に至るかもしれないし現にそうなってる気もする。特にこの種の抜け道を狡猾につかって繁殖してるのが、いわゆるサイコパスの人々である様におもわれる。彼らは総合点だと-450点とか行ってるかもしれないが、その様に見えない様に偽装して、まるで-20点くらいのちょいワルに見える様にしてたりする。だれのこととはいわないまでも大勢実例はみつかるのではないだろうか。具体的にあえていうか。天皇一派が代表例ではなかろうか? はっきりいって昭和天皇は大量虐殺含む植民地の縄張り侵略戦争中-5京点とか行ってしまったので誰の目にも大失敗が明らかだったものの、強度のサイコパシーを感じる狂った演技で言い逃れて、終生、内国的にはアラヒトガミづらもしくは人間宣言後はそれなりの善人づらしていた。こういうサイコパス影響者は今では無数に増殖して炎上商法ばっかりしているわけです。特に東京圏に多いわな。東大卒が多い。
 肩書きゲームはサイコの不良ぶりを隠すのに好都合なんだろう。符号理論信者と学歴劣等感の人らが明らかにだまされている。だから彼らとくれば立派な肩書きをとるための努力はそれなりにやるのだが、言動は明らかに自己利益を第一に他人を利用し、裏切り、操るといった根源的邪悪さを示しているので、見る目があれば一定時間の継続観察でわかる。そういう人だと分かったら自分は一定距離から近づかない様にしている。茂木健一郎氏に一定距離から近づかなかったのも、本能的に危険を察知したからだとおもうのである。彼は彼なりの親切心で僕を小林秀雄の鎌倉の実家? でやってた勉強会に呼んでくれたことがあったんだけども僕は直感的に行かない選択をした。何か危ない、こわい、行かない方がいいという感じがしたのであるが、無意識からくる深い心理なので説明するのが難しい。
 実際その後の彼はコロナ禍賄賂五輪強行とか危なっかしい事ばっかりやっていたので、もし僕が彼の勉強会に参加していたら、繋がりがあったんだぁみたいな感じでこっちも疑われたかもしれぬ。君子危うきに近寄らずという。危ないと感じたら近づかなきゃいいとおもう。そもそも、僕は割とその点で敏感な方というかとても敏感な方だった。学校とかでも嫌な奴だと思ったら全然近づいてなかったと思う。オヨはその種の人かは分からぬが、はっきりいって、ゆたぼんを庇うつもりの文脈でおどりでてきたみたいな感じだったのだけども突っ込んでくるところがおかしいので、学力も低そうな感じがしたし、元不良なのではなかったか? 不良以外の人が不良をそんなに庇うだろうか? 不良に遺伝的由来があるとすれば、ある意味で同種の遺伝を庇って、遺伝子競走でそちらを有利に持っていこうとして喧嘩売ってきた様に見えた。僕はどっちかといえばゆたぼんを応援していたどころか、「自殺するなら学校いくな」発言の真理ひとつで聖人扱いしてきていたが(もしかしたらもとは彼の父のせりふだったのかも)、高校おちたらしく、ろこからの伝言という人がずっとゆたぼん親子たたきみたいなのをモギケンの返信欄でしているのだけど、ざまぁ的な、痛快的な言動をしていた。当人のXプロフィールによれば東京の文京区あたりの人らしい。このひともこのひとで、色々分かってない気がするので、僕としてはなんか説教できるかすべきか色々逡巡してたのだが、まぁ物凄く無理そうだった。
 要するに勉強が余りできない人には凄くできる人や殆どできない人の気持ちがわからないのだろう。僕やモギケンは、できる側に属する。そうすると標準偏差の中位、具体的にはIQ100前後の人々がなんでそんなに集団教育にこだわるのか、あまり共感できないという事になる。つまり浮きこぼれ側からすると、集団教育は遅いから独学した方が速い、正確にはそちらが本番という事もある。研究者としてはどうせ自分で勉強しつづけるしかないから学校教育なんて、その基礎段階にすぎないし、自分で基礎的訓練を積むこともできれば、家庭教師、家庭学習や塾、オンライン教育、図書館がよいその他で身に着ける事もできる。しかしIQ100前後の人々は一般に数が群れ的に多いので、似た様に中途半端にできが中位な人々同士で、当人なりに頑張ってはいるんだろうけどそれより遥かにのろのろ学習して、大した成果をあげられず、そういう凡人さを自己正当化して一生おわることがおおいわけです。勿論IQが高かろうと低かろうと学習を継続していけばかなりのところまでいけるわけだが、最低でも、途中の学習の滑らかさでは一定の意味はもしかしたらあるのかもしれない。たとえば適切な例えかは不明だけど身長が200cmの人が150cmの人と全く同じバスケットボールの戦い方とは限らない様に、IQ200の人がIQ150の人と同じ哲学の仕方になるとは限らないのかもしれない。まぁ特定知能がその作業へ特に向いてなければ、特定の学習にあたって万事ゆっくりやるしかない傾向がある、といったことに過ぎない気もするけど。非常に高いIQの人が必ずしも最高の成績をあげない、という事象もあるからだ。
 だからして、不良擁護派というのは、おちこぼれ側の弁護人を買って出ているか当人がそっち側という場合が多そうだが、少なくとも、優等生側の方が普通程度側より実は劣等生側に寛大という事にもよくなりがちなわけです。理由は主に2つある。1つは、異なる立場への理解力がありがち。もう1つは、成績中央値からのずれがあるという点では優等生と劣等生は似ていて、ともに少数派として共感をもてる。でも、本質的には違う生物の様に分かれていたりもするから、まったくおなじところに落ち着くわけでもないだろう。僕はゆたぼんが聖人だという風におもっていたけども、それは自分も学校は地獄だとおもっているからだ。それは学校にいた自称普通みたいなひとびとが僕の目には全員おおかれすくなかれ悪人か愚者か、いづれかみたいな事例が実に多かったからだ。というかほぼそうだった。僕がリアルでろこからの伝言という人を学校でみたら、何で生きてるんだろう、この人、みたく感じた様に思う(恐ろしい事なのだがそういう人に自分は同情心と混同した恋愛感情を感じやすいのだけどもね)。それは彼女が普段から意味不明な言動をしていて、ゆたぼんという明らかに異なる発達条件(いわゆる今の定義で発達障害)の児童とその親を中傷している様にみえるからだ。この点では、問題が色々あるモギケンの言動にも一理があるとおもうわけだ。一般にいうところの発達障害というのは、平凡な変異からずれた人々が、集団教育に必ずしも合わない事があるわけで、ゆたぼんなんて誰が見てもそうだろうとおもう。先生が殴ったのに殴ってないと嘘ついたという言い分も現実にあったとしたら体罰の名目を借りた児童虐待にすぎないだろうし、エジソンみたいな例もあるわけだから、家庭学習か校外学習か、その他の方途で当人なりに個人の才能や常識の発達支援を親や教師とともにやっていく、というのが、文科省の方針でもあれば、家庭と教員と政府で合意済みの事案だったはず。それを理解できないろこからの伝言という人がおかしいわけだ。でも彼女がその事を理解するのはとても難しいだろう。それ自体が、ある種の「凡庸発達条件(凡庸発達障害)」ともいえよう。でも、その事をあの短い文字列しか使えないXで説明できるとは、自分にはおもえなかった。そうこうするうちにどっか行ってしまったが、まぁ、そのうちモギケンの返信欄でまたわいてくるかもしれないが、あれはあれで、困った人の様におもう。モギケン自体も困った人なのだが。

 とにかく、不良擁護派というのは、遺伝的共通性を利用して繁殖したがる、反社会的存在集団の可能性があるとおもう。だからそこにある、本能の暗い指名が得失効果の暗面なのではなかろうか。ダークテトラドの様な凄まじい邪悪な人格というのも、自分はピグで「天使」と称する悪魔という実例をしっているし僕自身も彼女から具体的犯罪被害にあまたあってきたわけだが、なぜか、明らかに社会に害をなしているその様な人物も点数式のごまかしをしながら繁殖して生き残ってしまっている。オヨという人が、親鸞思想の誤解に基づく凡夫だとしても、得失効果が自分自身への詐欺だと気づけないのは深刻だ。彼自身の人生でその誤解に伴う、或いは実名の僕へ色々中傷した悪業の因果は受けると思うが、たとえば、詐欺師とか犯罪グループみたいなのが、一見いい人みたいな顔して近づいてきて、同情を誘う話をした様なときとかに明らかに騙される結果にならないか? 彼の悪人正機説もしくは不良擁護論ではそうなってしまう筈だ。因みに高学歴サイコパス系ってのも大勢いる。そういう人々からも連日おおかれすくなかれ利用されて生きていくというのは、それなりに損害をこうむるとみる。つまり、僕が啓蒙のつもりで書いた事は、いわば点数式の客観的業の発想によって、主観的心理の欺きを退けて、真の善悪を見分けるのに役立つ倫理学的論点だったわけで、オヨがその事を理解できないとすれば、彼は哲学者と名乗るのはおこがましいことになるだろう。そう名乗っていたのだけどね。プロフィールで。将棋やゲームばっかやってんのかもしれない。

 まぁもうXブロックしたからいいけど、僕は既に述べた様に、得失効果が詐欺だという事については余り疑えないと思う。聖人に近い優等生側がたまたまミスしてしまった時に、例えば小学校3年の時の角田という教師が、僕が計算式かなんかを黒板に書いた時たまたまなんかちょっとしたところで間違えたとき普段満点とかだから「ゆうすけもおちたな」みたいにみんなに蔑ませる目的でいってきて、言葉にできなかったが、なにいってんだ? 無礼なやつみたいな感触を感じて逆にその教師たるべき人格を軽蔑したわけだけども、それ以来近づかないでいたのだけども、そしたら授業参観のとき母親の脇にいた自分へ母にきこえる様に「いつも避けてるじゃん」とかわざとその角田はいってきたが。機械じゃないんだからケアレスミス的なのって、たびたび弘法も筆の誤りでやるとおもうのだ。本質的な学問上の間違いじゃないんだもの、あれ。そんな単純な人間的ミスの部分のあげ足取りをして、あの角田という新任の茨大の多分教育学部かなんか出たての若い男性教員は、授業時間中も下品なジョークかまして勉強できない人らのウケとっていましたが、その点も僕は軽蔑していた。僕んちはそういう家庭風紀ではない。
 まぁ要するに聖人君子側が道徳判断ミスった時にそれを過剰に低評価しがちなのは、偶像崇拝が危険だという経験からきているのではなかろうか。さっきとたまたま同じ例だが皇室が典型例だけどもスキャンダルが殆ど情報統制されてて出ないから、内部暴露があったら大変なことになる。教祖かねてるからね。でも時間の問題の気がする。人間宣言もそうだけど、神では明らかにないのだから。僕としておもうのは、それにもかかわらず善人というのはいる。僕自身も明らかに善人という風におもうけども(悪を避けて善を選ぶことを極限までやる、という習慣を20歳位からずっと続けている)、寧ろ自分の場合はすぐ利他のために自己犠牲してしまいがちという自覚があるので、アリストテレスが多分『ニコマコス倫理学』で言ってた様に、よい事でも過度なら悪くなるばあいの為に中庸を穿つには逆のほうへ引っ張る必要があるが、それは自分のばあいは、他人の為を第一に考えがちなので自分の人生も大切にする、ということであった。そういう性格の人じゃないだろうから、オヨってひとは。ああいうこというので。聖人側の気持ちがわからないんだとおもう。むしろよいことをしすぎるのを気をつけるという状態にあるんだけどね。常に人助けばかりで自分は損してばかり、となるからだ。そうすると他人はよくても自分は客観的には不幸せな状態みたいになってしまう。もし真に、しあわせに値しても。

 まぁとにかく聖人は癖からしてよいのだから、悪いことしてもすぐ反省してなおすという習慣がついているはずで、一生の長さでも、そう失敗しないはずだ。特に問題が起きるのは良すぎたばあいだけだ。ソクラテスやイエスがその典型とおもう。余りに善行しすぎたので当時の凡愚からは理解不能で、排除されたわけです。その点は、確かに反面教師とおもう。彼らがもう少し利口なら、もっと啓蒙だの啓発だの宗教革命だのをうまくやれたと思う。動機はよかったわけだから。フランクリンが13徳の最後で、彼らを模範にすべし、といっていたのは、フランクリン自身は利己的な人格だったからだとおもう。