性売買は本意のものと不本意のものがあり、本意のものについては性別に限らず、一種の相互承認下の接待術の短期取引契約だと見なせると思います。その取引契約を離婚成立まで長期化したものが結婚制度です。
田中優子氏が性売買を双方違法化すべきという時、不本意のものと区別がついていません。
恋愛理想論(ロマンチックラブ・イデオロギー)は、相互承認に性関係が介在する時も、打算的取引の要素を主観的には多少あれ排除しようとします。しかしこれは現実的に見た相互取引関係の要素全てを排除できないので、現代の欧米を主としたキリスト教圏の自文化中心主義にくみこまれた偏見といえます。
例えばAV女優さくらまな氏はAbemaTVに出演時、彼女自身の自由意思で本意の売春をしていると主張し、その職業を愛しており、心から自己実現できていると語りました。田中氏の本意の性売買違法化言説は女性が本意で売春する事はないか、性売買自体が罪というキリスト教信仰に寄託したものにすぎません。
田中氏が例に出している北欧やフランスは、恋愛理想論やキリスト教信仰的価値観の下で本意の性売買違法化を図りましたが、寧ろ女性を主とした性労働者側が本意の売春の合法化を求めて反対デモをした事もありました。
江戸・明治期の美術展を田中氏個人の政正の主張に利用するのは不適切だと思います。
私は最も寛容な考えとしては、本意性売買の自由権や職業選択権も、責任能力ある成人に限っては認めるべきだと考えます。寧ろ同じ西洋でもオランダやドイツのよう合法化する事で地下に潜って闇市化する事を防ぎ、労働条件を改善できます。その方が性病や反社会勢力との絶縁もたやすく、女性も自由です。
吉原遊郭単体に論を絞れば、当時は合法かつ人身売買面が存在した事は事実で、全国各地で間引きが広く行われていた事や私娼禁止を考慮しても、年季奉公の形で一種の公的職業や刑期に近かったと思われます。しかし、現代と性観念も人権背景も違うので田中氏が現代倫理の援用で同列に論じるのは不適切です。現に北欧やフランスの場合、日本と大幅に恋愛観や性観念が違います。北欧は自由な性が教育的常識で性交に端ないといった抑圧が余りありませんし、フランスは複数愛や未婚伴侶など自由恋愛の許容範囲が日本の常識より遥か大きい。つまり吉原遊郭の接待術と、両国の性を同列に並べられないのは無論です。
又、吉原遊郭や遊女らを描いた絵画群は、飽くまでメタ認知による特定画家の思想を表した表現作品で、そこに描かれた内容が直接、現実を示しているとは限りません。作り事にすぎない絵の虚構を、現実の吉原遊郭での性や接待術の歴史と同一視するのは誤りです。
即ち田中氏は政正確保の盾にすぎない。
わが国には表現自由権が憲法に認められているので、浮世絵や油画を集めた展覧会を開く自由は確実に守られるべきですが、政正の観点のみから展覧会の内容を改変させたり、中止させようと図った人々側には違法性や不正があります。絵を現実と同一視する稚拙さに基づいて、歴史の理解を妨げるのは公害です。
なお、不本意売春は今まで通り違法化を続け、寧ろ今までの警察がグレーゾーンで泳がせる状態より強い厳罰に処する事が、人身売買を防ぐ手段になると考えます。その為の法改正にも取締り実行にも私は賛成です。特に桐貴清羽氏が公益通報した、京都での未成年人身売買罪の実態は深刻で国政介入が必須です。