2024年3月18日

建築士法18条5項(公共の福祉に合致する設計義務)案

2015年のザハ案撤回、2016年豊洲市場移転延期、そして2023年は万博木造リングと、公共建築が社会問題となって世間が大騒ぎする事件・事案が時々勃発しますが、その度に目立つ発言をして注目される建築関係者が森山高至さんと五十嵐太郎さんで、森山さんも問題のある発言はあると思うんだけど、本当にタチが悪くて世の中にも建築界にとっても害悪な情報を発信しているのは五十嵐太郎さんだと自分は思っていて、何が良くないかというと、ザハ案も豊洲もリングも本質的には建築の問題(それと行政手続きの問題)であって、建築関係者が向き合わなくちゃいけない話なのに、五十嵐さんは毎回、悪いのはSNSとマスコミと政治家であって、建築には何の過失も問題も無いのに罪なき建築が理不尽な妨害を受けているんだ、という主張を情報発信していて、自分が見る限りそこには責任転嫁や歴史改変、印象操作があって知的に不誠実だし、また、そういう他責的な建築無罪論は、建築関係者には耳障りが良く心地よいものだから、支持されて受け入れられて、また、五十嵐さんは時間をおいて後になってからも、展覧会を企画するとか、東浩紀さんのネット番組にとか、大学で教鞭もとっているし、継続的に情報発信する力があるものだから、当時の情報に直接、接していない若い人や学生さんなんかは、後からの五十嵐発の情報に、やっぱり影響されると思うのですよ。だからザハ案騒動と豊洲市場問題、当時の報道や公開資料をみたら、そこには設計段階から問題があったことは明らかなんだけど、こういった本質的な建築の問題をスコーンと認識しないまま、五十嵐さんの主張そのままに、「あれはSNSとマスコミと政治家が妨害してうまくいかなかったんだ」と認識している人が建築関係者にはとても多くて多数派になっているんじゃないか、と実感しています。で、今回は万博木造リング問題なんだけど、やはりというか案の定というか、五十嵐太郎さん、X(twitter)では「SNSとマスコミと政治家が悪い、建築は無罪」の情報発信を始めています。リング問題はこの先さらに加熱しそうな勢いで、そうなるとザハや豊洲の時みたいに五十嵐さんの主張が全国紙の新聞や東浩紀さんの番組など、知識層から信頼されているメディアからも発信されることになるでしょう。森山さんとはここが違うところで、森山さんの主戦場はワイドショーとか夕刊紙で、まあ、眉に唾つけて話半分で接する人がそもそも多いのですが、それに比べると五十嵐さんから発信される情報は断然、影響力が大きいわけで、今回の木造リングのケースでもまた広く信じられて受け入れられて、建築関係者の間に悪しき建築無罪論がはびこって定着するんじゃないか、結局はそういう事になって同じことの凝り返しか、と半分あきらめつつ、危惧しています(了)
――k_wota

建築士は自分が勉強してきた範囲だと、「建築主の代理人」という事が建築士法18条3項などで明らかに定義されていたと思います。自分が習った先生がたも総じてその様な事を言っていました。戦後、建築士法を導入してから、現行法や建築家倫理が通例そうなっているという事にすぎないのではないですか?

建築士法 18条3項
建築士は、工事監理を行う場合において、工事が設計図書のとおりに実施されていないと認めるときは、直ちに、工事施工者に対して、その旨を指摘し、当該工事を設計図書のとおりに実施するよう求め、当該工事施工者がこれに従わないときは、その旨を建築主に報告しなければならない。
いいかえれば、建築士法に定める建築士、あるいは建築基準法に定める設計者に、業務の範囲として、自由裁量の余地がかなり少ない。建築主に請われ、ある設計案を出す。建築主に承認されないと設計案が認められない。設計案が承認されると、設計者が公的性質を問う余地は法的には一応ない事になっている。つまり建築の主体は文字通り「建築主」であり、設計者や建築士ではない。よって建築主が認める案が通り、本来、設計者・建築士が実現したかった案ではない事も多い。もし設計者・建築士が公的性質を鑑み、建築主の認めない公益性の高い別の案をだしても、拒絶されるか解雇されてしまう。法的立場が弱い。

 例に挙げられているザハ案は元々彼女が「アンビルドの女王」と言われていたよう実現可能性を一旦保留し、大層な絵を描いてのち現実案を考察する特徴のある建築家だったので、特殊な事案だった。普通は実現前提にコンセプト段階でも設計するわけで、かの事例だけで設計業務全体を一般化するのは難しい。
 私は森山高至さんという人は全然しらずXでちらっとしか見た事ないので彼について何も言えないが、建築学を少々学んだため五十嵐太郎氏の本は持ってて当然知ってもいますが、彼が特殊な評論しているのではなく、彼の意見は建築基準法や建築士法の枠組みで建築士は建築主の従者と理解しているだけかと?

 私は祖父が偶々日本の制度上の建築士の第一号の一人だったのもあれば、一応妹島和世氏の事務所に弟子入りに行って暫く手伝わせて貰った事もあるので、地元と世界の建築家側の様子を少しは垣間見た側と思うが、もし一流の建築家が建築の公共性を全く考えていないと仰るつもりならそれは全くの誤解ですね。妹島さんらは毎日飽きるほど模型を作って執念の努力でスタディをしていました。皆朝から晩まで働いていた。夜に海外から帰ってくるとすぐ仕事が始まった。自分がいた時期はフランスのルーブル美術館別館「ルーブルランス」競技で勝利した時期だったが、明らかに公共性を重々考えた建築だった様にみえる。

 今回の大阪万博木の輪の設計者は、今度、東浩紀さんの所で山本理虔さんと藤本壮介さんとの議論をやるみたいだからそこで何らかの確定情報が出るでしょうが、競技の様な公平な監視が働く形ではない専任なので、建築主との何らかの癒着も考えられる。この事案だけをみて通常の競技と同じとするのも誤りだ。

 もし公共性を省みて、設計者・建築士の側も何らかの逆提案を建築主の要望をこえてできる制度の枠組みにしたいという事なら、その様な法に変える必要がある。今の建築士法では「建築士は建築主に従」の主従関係は実際に明白なので、公共の為の逆提案は通常できないか、主従関係が逆転するのでしづらい。

 例えば、次の様な項を書き加える案がある。
建築士法 18条5項
建築士は、設計が公共の福祉に照らし明らかに不適切と考えられる際には、建築主にその旨を通知した上で、設計を拒否する義務がある。但し、建築主がその旨を知った上で、公共の福祉と合致する設計を受け入れた際にはこの限りではない。