2024年2月24日

人文学の意義

陰険な人は善意に満ちた他人を陰険だと言って非難する。本物の愚か者は賢明な他人を愚かだと言って非難する。物分かりの悪い人はすっかりお見通しの神々を物がわからない人だと言って非難する。邪悪な人は聖人を悪意だと言って非難する。姦淫の人は純潔な人を不貞だと言って非難する。
 人は主観で物を見がちなので、他人へ偏見を持つ事が多い。しかも各人は自分の心を雛形にそこからのずれとして他人の心を理解しようと努める事になるので、自分と余りに違う他人を理解する事は元々難しい。この為に、主観的偏見の歪みを取り除く反証を絶えず行うか、心の雛形の類型を多く集めておくか、いづれか又はどちらもによってしか、自分と大幅に異なる他人の心を正確につかみとる事は通例巧くできない。

 心の理論以前に、劣悪な心の持ち主はどれほど立派な心の他人も、その心が立派であればあるほど益々致命的に捉え損なう。これはどうして類は友を呼び、同類相憐れむかを説明する。裏を返せば、立派な人は立派な人同士だと互いの心を理解し易い為に、実の貴人がおのずと知り合うだろう理由でもある。

 大久保利通は西郷隆盛の心はよく理解できたろうが、徳川慶喜の心は殆ど誤解しかできなかった。だが逆に慶喜は孝明天皇やナポレオン3世やリーズデイル男爵の心は十分理解できても、大久保や西郷の心を知るのは相当難しかったろう。
 生育系の大幅に異なる心の姿は、一般に隔てられた水槽の魚達の様だ。

 人文学こと人間性群を研究すべきなのは、捉えどころのない心を色々な姿で考察する事で、人の心をより正しく把握しようと努めるからだ。
 人文学の未熟な人は、他人を誤解しながら我欲を押し通そうとし失敗する。人の心がわからないからだ。だが人の心が恐ろしくよくわかる人は神の如く振る舞うだろう。