恋愛理想論をお信じにならしゃる日本女連のうち女権過激派がいう。吉原遊郭は性奴隷の使役場に過ぎず苦界解釈しか絶対にありえない燔祭級の地獄絵図といえと。
女性主義の行き過ぎを少々緩和したとしても確かにその面はあったろうが、問題はなめ猫式に花魁を頂点とする奴隷社会が成立した事だろう。
遊女の人間模様が幾らか通俗的でもありつつ一定より同情混じりの興味を惹くので、人類一般は主にその人らしさだけに注視しているのである。浮世絵中の遊郭の様子を確認する大半の人間は恐らくだが、特に性交やその模擬行為の中身とか、女衒らの良心のいかれた人でなしぶりとかに共感しているのではない。奴隷社会にも一定の秩序があり、勝山の場合のよう違法な湯女から政府に捕まって公認の吉原遊郭へ送られ、そこで禿だちではないのに「伝説の花魁」まで出世したとも言える人も実際にいた様子から、多分、花魁の世間的地位をめぐる報酬や評判も、江戸娼婦界では少なからず知れ渡っていた筈だ。街娼に比べ、吉原の花魁の方が明らかに地位が高かったのが公的事実なのだろう。
さながら今でいえばAV女優のうち最高の地位を占めている人みたいなもので、ビデオという媒体が出てきてから主に都内で裏社会を形成しているが、江戸、明治、大正、昭和、平成、ときて令和期も、お江戸東京は特に変化がなかったのだ。基本的人権の面で少しは進歩したが、やっている事は何も変わりがない。性奴隷ではなくなったかもしれないし、こないだの法整備で事実上公認してしまった形になっていると思うが、報酬きくと驚くべきものだから、AV女優の中の頂点の人が昔でいう花魁の地位といっていいのではないか。だとすると、逆に類推し、江戸期も禿だちではない志願形で花魁めざす人がいたのではないか。
大吉原展弾圧が複雑なのは幾つかの問題集を同時に孕むせいだ。
・美術展弾圧はナチ超え前代未聞
・吉原遊女は性奴隷と志願者が混在説
・遊里文化要素があり江戸東京史の不可欠の一部
・本意の娼婦の権利擁護
・性売買の有罪・無罪是非論
・子供人身売買の非難
・今の吉原地区の法的地位と文化尊卑論
等。
根本女性主義者らがいつものよう大発狂し、大口撃をしかけてきているのは確かだし自分もやられたが、唯の市井の大人しい画家まで大弾圧だから、何もみてないのである。絵は。彼彼女らは技に興味がある訳では毛頭ない。単に女権至上で男性差別を上野千鶴子がやってた様に見えた様にやりたいだけである。だから美術関係者が絵メタ認知論でまともに反論しても何の効果もない。大大大発狂されブロック、純粋悪意から数万人群れられ、イイネ引用嫌がらせや無数の暴言を吐かれ、女権至上暴徒に集団冤罪BAN目的で通報攻撃されまくって終わり。𝕏ではいつもの光景だから慣れっこになっているが。酷い伝統だ。
先にも何度も書いたが、『源氏物語』は皇族男の連続強姦話で被害者女が自殺未遂後出家し終わるというとんでもない悪魔的皇族特権乱用話、しかも女権は完全無視されている地獄絵図自体で読むたび深刻に気分を害するが、根本女性主義者らは長文読解力がないのか、全く無視して大河ドラマを大賞美している。
つまり根本女性主義者が依拠する理想論は恋愛至上主義で、その中には自分の本能由来の害他的利己心の塊を人権乱用で正当化する完璧な悪意がある。自分はそれを知っているし、元々妻の知能への理解から婦人参政権を主張してたミルら男主導の女権論のはじめ、相当の女らは嫌がっていた事も思い出される。
この場合も、一言でいえば、過激女権を盾にとって欧米出羽守演じつつ、米英帰り春画弾圧で低美術教養のお間抜け晒しつつ、性嫌悪や性被害トラウマ帯びた因縁ある大正義派を気取りつつ、絵画展を大弾圧する事に女権を見る人々は唯の権利乱用者なのである。過去の性奴隷弄び論調非難は自由権に優越しない。
美術表現について展示側が或る文脈を作っている。それが性奴隷を介在させた過去の江戸東京セックスパーティ大乱交模様の、「!?」と感嘆符と疑問符を重ねての驚嘆系疑義だろうと、確かに自由権の一部だろう。
同時にやめさせろと叫ぶ権利はあるものの、実際にやめる必要はない。論評の自由だからだ。
吉原遊郭は江戸時代から昭和時代まで続いていた。だからその中での歴史は既に過去の事になっており、一般には法的時効ともいえる。ただ倫理的責めは負う。
当時は合法だった事を鑑みても、性奴隷含む遊女らの姿を時に偶像崇拝の如く美化し時に憐れな心中模様を劇化しようが、それは画家の工だった。
過激女権論者が大吉原展で攻撃対象にしている敵は、彼彼女らには明白にみえていない。だから全方位に乱射し恨みを買い、潜在的味方の市民まで巻き込んで革命軍を気取っている。事実上の無差別攻撃に自分も被弾したが、想定をこえてはいなかったのですぐ治療・反撃し前線に復帰できたが、自由権侵害だ。
酷い女性蔑視だ! という。クーンズのポルノ芸や会田誠のアンチフェミ全開女体凌辱系抹殺画に比べれば2代目高尾太夫の操伊達の劇画は恐らく貞徳啓発上ましなのだが、美術史でなく直接参照にされているのが単なるワイドショー空間的な暇な主婦の井戸端会議なので、遊女の美学の考察すらすっ飛ばしている。
小紫太夫は何と言ったろう? 後世の女性が権八みたいなダメ男に惚れるなんて馬鹿な花魁だという、それでもあんたは立派な女だと涙ながらに苦境を憂う、ただ単に男どもを恨むといいつつ連続殺人鬼の為に操を立てた極端な娼婦のありさまに今は昔としらんぷりする。遊女の美学の権化はそれでも、いたのだ。
闇に押し込めて見なかった事にしたいという。なぜなら色道の専門職なんて年季奉公奴隷制の副産物で、女側には四十八手無用でそんなの江戸町人界の「悪しき幻想」だと茂木健一郎と一緒にいうのか? 明治政府の下で描かれた花魁の油画は、彼らに何を語りかけているのだろう。恥知らずの令和の欧米被れに。ある女が言った。恥を知れ! 間違いなくそれはお前だろうとすぐ思ったが、そう言ってもしょうがないというか即発狂するのも間違いなかったので、性の悪い米国被れ恋愛理想論者だとはわかりつつ、長々説教で応戦した。どうせ理解などできないだろうが。なぜ画家が遊女のかなしみを無視できなかったのかを。