2024年2月11日

吉原遊郭の基礎知識

1617年、庄司甚右衛門(しょうじ・じんえもん)が吉原遊郭の創設を江戸幕府に許可された時、吉原遊女には3階級あった。
 芸能や教養に優れていて高額な「太夫(たゆう)」、次位に「格子(こうし)」、最後に「端女郎(はしじょろう)」。
 1661から1673(寛文)年間の頃、江戸じゅうにいた私娼(無許可の売春婦)が摘発されて吉原に送られ、格子の下に新たに「散茶(さんちゃ)」階級ができた。
 名の由来として、「太夫」はもと中国の官制に倣った官位の一種で、五位の称。古代に五位の者が儀式とそれに伴う芸能を司った事から、転じて、神事や芸能に奉仕する神職や芸能人の称となった。最高位の遊女に転用された理由は未確定。「上職」や「松の位(くらい)」ともいった。
 格子は、格子の中にいる遊女だから。
 散茶は、粉になった木っ端の緑茶葉が入れ物を逆さにすれば"振らずに出る"事から、どんな客でも相手にしたのでそう呼ばれた(つまり太夫や格子は客を拒否する事もできた)。
 1716から1736(享保)年間には太夫、格子、散茶の更に下に「うめ茶」「五寸局(ごすんつぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」が置かれ8階級となった。
 最下級の「次」は「二朱女郎」とも言われたが、当時の通貨単位の2朱に由来する。
 ほか「廓妓(カクギ?)」と呼ばれる芸妓もいた。

「花魁(おいらん)」は太夫の別名で、「おいらんとこの姉さん」(オイラの所の姉さんの江戸訛り)が縮まりおいらんになった。
 花魁は全階級間で最も豪華な化粧や着物、髪飾りをしていた。
「花魁道中(おいらんどうちゅう)」と呼ばれる行列で遊郭内を練り歩いていて、その姿を見物する人も多かった。

 新入り吉原遊女は「禿(かむろ)」から「新造(しんぞう)」へ昇格、さらに「振袖新造」へ進化し、水揚げ(みずあげ)と呼ばれる初客相手で、処女喪失する習わしになっていた。こうして育った太夫を「禿立(だ)ち」といい、芸能、文学、遊戯、茶道などの教養を積み、理想的高級娼婦として最上とされた。吉原遊郭では、見た目がよく利発な禿をその妓楼の太夫につけて所作を学ばせ、毎日からだを美しく磨かせる合間に、歌道、音楽、書道、華道、香道などの教養教育を与え、一流の高級娼婦に育てていた。
 吉原遊郭の「高尾太夫(たかお・だゆう)」は有名で代々襲名した。2代目高尾太夫は仙台の伊達家3代当主・伊達綱宗(だてつねむね)の相手をした伝説がある(伊達騒動の読本や芝居による。後述)。太夫(花魁)は大名級の武士や、大町人ら大物を客にした。

 太夫(花魁)と馴染み客になるには初回、再会、三会目と最低3度通う必要があり、1度会うのに100両(今の約800万円)以上の金が要った。
 1751から1764(宝暦)年間の末には、太夫(花魁)の相手をしていた知識階級の武士が窮乏、町人中心の時代になって教養教育の需要が薄れ、吉原には太夫の称号をもつ遊女はいなくなり、みな格子以下になった。
(以上参考:
https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-065-08-04-G252.html
https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-064-08-04-G252.html


 吉原遊郭内で行われていたのは、建物の大部分を占める「妓楼(ぎろう)、女郎屋」の店の前で客が遊女を指名し、店の中で遊女と性行為する事だった。
「揚屋(あげや)」では、太夫や格子を選べた。
「局見世(つぼねみせ)、切見世(きりみせ)」と呼ばれる長屋形式で時間制の、時に土間に薄い藁をしいただけの、格安の女郎屋があった。
「意和戸(いわと)」と呼ばれる小屋の中で客前で遊女が脱いだり、性行為をみせあうストリップ劇場の一種があった。
「夜鷹」と呼ばれる最貧の街娼が吉原遊郭の周辺にいたが、10代から70代までと幅広く、道端のしげみにござをしいて性行為をさせ、客から今の貨幣価値で数百円ほどの金をとっていた。
「船饅頭(ふなまんじゅう)」と呼ばれる、川の舟が岸に着くまでの間に性行為を済ませる方法をとる夜鷹も吉原遊郭の近辺にいた。
「裏茶屋」と呼ばれる洒落た造りのラブホテルがあり、売春できないはず芸者や妓楼関係者らが男と密会する場に使われていた。

 吉原遊女らは年季奉公と呼ばれる契約期間が終わると、「番頭新造」として太夫(花魁)らの雑用をしたり、「遣手(やりて)」として遊女の監視や管理をしたり、河岸見世(かしみせ)呼ばれる安い妓楼へ移籍したり、岡場所(遊郭外の売春地点)や宿屋などで売春したり、最貧街娼「夜鷹」になったりした。

 吉原遊女らには性病も多く、脱走防止のため遊郭外に外出禁止で、正式な休みは正月と盆の2日だけだった。
 心中や逃亡をはかって失敗した遊女には厳罰が科されていた。
 途中で身請(みうけ)と称して、大金で遊女を吉原遊郭の外にもらい受ける客もいた。

 吉原遊郭には料理文化が生まれ、「桜鍋」という馬肉を桜の花びらの形に切って、桜の葉や花をそえて煮込んだ鍋料理が吉原発祥である。遊郭内に桜鍋店が数十軒もたちならび遊郭外でも人気があった。
「台の物」という宴会で見て楽しむ為の松竹梅をあしらったモニュメント料理が「台屋」から出されていた。

 吉原遊郭は江戸時代から令和時代まで、大衆文化の中で、浮世絵、漫画、小説、歌舞伎、映画、アニメなどによくとりあげられ、遊郭の中での遊女らの恋愛や駆け引き、心中事件などの悲劇が人々の感動や興味を引き、遊女らは妖艶な美をまとった存在として憧れやフェティッシュな妄想の対象にもなってもいた。

 遊女を描く浮世絵の値段は、江戸時代の初期から中期は1点もの主流で、8万円程する事もあったが、江戸後期には多色刷り版画が主流で500円ほどに価格低下し人気が出た。安値では100円から200円ほどで売られていた。当時のそば一杯が約300円だったので、浮世絵は庶民に手の届く、大衆美術品になっていた。

 有名な吉原遊女の例では
・2代目高尾太夫(初代とも)
3代仙台藩主の伊達綱宗に見初められ約5億円で身請けされたが、情人の鳥取藩士・島田重三郎に操をたて、指一本ふれさせず思うがままにならなかったので、舟の中で見物人へ見せしめに逆さづりにされ斬られてしまった、との内容の悲劇が作られた。
辞世の句
「寒風(かんぷう)にもろくも落つる紅葉(もみじ)かな」
(『燕石十種』)

・小紫太夫
三浦屋の花魁で和歌がたくみ。鳥取藩士・平井権八(白井権八 しらい・ごんぱち)と懇ろになり、権八は小柴会いたさに130人もの人々を殺害、強盗を繰り返し、25歳で処刑された。別の人から身請け話がきた小柴は、身請け当日に、権八の墓の前で自害した。
 この悲劇を題材にした「権八小紫物」と呼ばれる浮世絵や歌舞伎、狂言、浄瑠璃、映画などが多くある。

・6代目高尾太夫(榊原高尾、榊原太夫)
8代姫路藩主・榊原政岑(さかきばら まさみね)に身請けされ、花魁で唯一大名の側室になった。

・勝山(かつやま)
元湯女(ゆな、風呂屋で売春をしていた娼婦)のファッションリーダー。派手ないでたちで自ら考案した「勝山髷(丸髷)」の髪を結い、上級武家風の髪型だったが江戸の町女らの間でこぞってまねされた。
 吉原へ移籍すると人気からたちまち大出世し、太夫へのぼりつめた。
 吉原の花魁道中では京都の太夫が歩く「内八文字」の足取りが主流だったが、より派手な印象を与える「外八文字」は勝山が考案した説がある。
 今も「どてら」と呼ばれる広い袖の綿入れ「丹前」は、勝山が考案し、ひいき客に配っていた説がある。
 勝山のファッションセンスは江戸庶民だけでなく武家の女性にも人気で、当時の大阪の小説家・井原西鶴も随筆中で勝山の人気に触れていた。
 江戸時代の「色道」は、遊廓での遊び方であり、振る舞いの作法である。田中優子(田中優子『遊廓と日本人』2021年、講談社)が述べているように、遊廓は文化の集積地でもある。
 特に江戸前期には、遊廓は平安時代の貴族的な<雅>を継承しようとして作られた世界と言ってもよい。
 つまり「色道」は西洋社会がいう「性欲」を満たすだけのものではなく、客と遊女が共に教養を身に着けて経験する「性のあり方」(遊び方=生き方)である。
 ここで、身につける教養と自らの実践=「身体経験」を通じた自己鍛錬により、身体をより敏感に感知することができる。それは文化的・芸術的な創造にとって、何より重要なことであった。
 そのため「色道」は、江戸時代の遊廓における客と遊女の振る舞いとして実践されたばかりでなく、読み物、浄瑠璃や歌舞伎といった芸能のなかで、遊廓の外の人々にも経験されたのである。こういった、江戸の性をめぐる文化的構成は、近代西洋とは大きく異なっている。
 町人集団の性的対象である女性のカテゴリーは、少なくとも妻、妾、奉公人と遊女という四種類からなることが明らかになった。
 遊女は、家の外に位置付けられ、生殖から排除されるが、単なる快楽の対象にも収まらない。
 妻は生殖という価値を、奉公人は労働という価値を持つが、生殖・労働から排除された遊女が他のカテゴリーの女性と異なるのは、教養・芸能によって価値づけられている点であると考えられる。
 『色道大鏡』が書かれた江戸前期の町人文化は、平安期の<雅>の文化を追求してきたため、遊廓はその舞台として、遊女の芸と教養が重視されてきたのだと考えられる。
――『江戸時代前期の遊廓における性のあり方に関する考察『色道大鏡』を手がかりとして
杜崢(龍谷大学)日本文化人類学会 第57回研究大会
 ヨーロッパでは個人が自分で売春するのであって、だからこそ本人が社会から蔑視されねばならない。日本では全然本人の罪ではない。大部分はまだ自分の運命について何も知らない年齢で早くも売られていくのが普通なのである。
――『ポンぺ日本滞在見聞記』沼田次郎、荒瀬進・共訳、雄松堂、1968年