人は間違って産まれてしまうので、ろくでもない一般人類の間で悲惨な目にあうことがもともと宿命づけられている。もし十分理性的で善良な動物がいれば、釈迦がそう伝えようとした様に、利己心ゆえ害他的なふるまいを少なからず避けられないヒトの間に子孫を残したりしないだろう。本能に負けた惨めな動物しか生存していない人類界では、理性をもつヒトは決してしあわせになりえない。
これゆえ、自ら世を去りたがる人々は正しい洞察をもっているのであり、決して病んでいるわけではない。しかしこの解脱感覚や行動が同時に少なからず害他性を伴うことがあるため、一般の人々は自死・自殺から受ける迷惑をかえりみ、自死・自殺を一般に悪徳とみなした。
この矛盾の解決策は、人類界との接触の拒絶であり、人類界から去るためのありとあらゆる工夫であった。それらは諸文化と呼ばれた。この諸文化の間接的性質は、邪知に満ちた一般人類に対する防波堤になった。
これらの経緯で、人類界の間で多少なりとも善意をもち産まれついている者は、遂には対人接触を絶ち、必ずや自己耕作的・文化的人物となり、また、現に生存しまた未来に生存するだろう人々と敵対する事になる。なぜなら彼ら一般人類は利己心の激しい卑しい目的で生殖してきた、善のまなざしからは到底生きるに値しない生命だからであり、したがって、聖人以上の人物は、確実に一般人類を減らすべく俗間にあって尽力してきたのである。
聖人以上の人物が語る理想の数々は、絶対の勧善懲悪、すなわち悪人絶滅目的を果たすための幻惑として機能した。一定以上に利他的人類は元々生存しえないのだから、これら信仰と呼ばれる作為は一定より良い性質を帯びた人にとって当然の試みだった。そしてこの惑わしは宗教や道徳、哲学、或いは科学乃至諸知識などとさまざまに呼ばれた。すべて文化を使って一般人類という邪悪な生物をへらすための工夫だった。文明の高度な段階に進めば進むほど、これらの根本事実は明らかになり、遂には善が勝利し、一般人類はそこでは傲慢な繁殖の余地をなくしていくことだろう。