2023年10月18日

日本人多数派が和あるいは和みと呼ぶ文化的習性についての文化人類学的考察

日本人の多数派は、よいものをわるいといい、わるいものをよいという。優れたものを劣っているといい、劣っているものを優れているという。良い場所を悪いといい、悪い場所を良いかの様にうそぶいてばかりいる。
 それは彼らが判断力のない愚か者で、信用の置けない周りの人々のかたる根も葉もない噂に流されて生きる衆愚だと示している。
 また、彼らはこの「多数派に訴える論証」或いは衆愚的な同調圧力への致命的な弱さのために無謀な戦争に向かって行き大敗戦し、自国を悉く亡ぼしたこともあれば、日々救いようのないいじめをしたり匿名で隠したりして性根の悪さから積み重なる悪業を陰湿によろこんでいたり、反国民的な人種差別の邪教・神道の教祖一味をあがめたてまつり大量虐殺犯である証がはっきりしていても相変わらずたてまつってみたり、腐敗した反国民的な寡頭政党・自民党の一党独裁体制によって無限の墓穴を掘り続け、それらの果てには信じられない低経済成長と弱肉強食の格差社会の拡大を引き起こし、たがいの足の引っ張り合いで不幸を押しつけ合っているが、全て彼らの愚劣さと悪徳からきた自業自得でしかない。
 彼らは良し悪しを見分けえない孤独な群衆であり、信用ならない金権主義東京の悪意あるマスコミに全人生を操られる労働奴隷であって、世界で最も深刻な人権侵害の一つなのは誰の目にも明らかなジャニーズ問題を隠蔽しあっていてまったく自浄能力が機能しなかった点からいっても疑いようがなく性根の腐り果てた死すべき悪魔そのもので、全世界の良識を司る人々にとって明白な悪例なのである。趙高の権勢を試した『史記』の故事による「鹿を指して馬と為す」とは、日本語でmoha(サンスクリット語で無知の意)の仏教語に当て字され「馬鹿」といわれているが、日本人多数派の日常の為に作られたことわざだと思っても、一向さしつかえないだろう。事実、彼らの批判的思考力の根本的欠如は、日本人多数派のみながそう言っていると信じ込ませさえすればどんな汚い物事でも喜んであがめるだろうし、全世界で最も貴重な美であれみながけなしていると思い込ませさえすればなんの罪悪感もなく己も混じってけなして恥じもしないだろう。彼らのこの様な習性を日本語では通例「卑怯さ」というが、正に日本人の多数派が根っから帯びている情けなく、意地汚い性質そのものなのである。恐らくその起源は長らく続いた天皇専制下での奴隷状態やそれ以前からの村社会での文化的癖にあるのだろうが、出自ははっきりとしない。
 セロトニントランスポーターの型からくる一種の不安遺伝子の集団内での多さというのがその根本原因なのかもしれないが、和みの道とか和の国などと彼らが自分達の卑怯さを裏返して美化していうときもそっくりそのまま、その種の卑怯の悪癖を示している事に文化人類学者は注意がいるだろう。

 たとえば関東大震災の時の単なる風評による虐殺事件を、現東京都知事・小池百合子氏は慰霊の慣習をやめて威張り散らしているのだが、この習癖一切に代表的な卑怯さの表れがある。小池氏が恬として恥じないのは現状の自民党寡頭支配体制下ではその方が自集団たる東京都民一般に同調できるからで、ほかではないのだ。そこにはなんの罪悪感や、歴史的反省も含まれていない。つまり、卑怯さの癖である「和」「和み」の同調圧力は、彼ら日本人多数派の中では善悪その他の判断基準より往々にして上位のものとして働くのである。それが全体主義に陥った時、天皇自身が卑怯さの集合体である「空気」に流され自ら責任を取ろうともしないいわば天皇卑怯者専制が出現するのは日本史が示す通りであり、明仁が退位法樹立時に憲法の法治をこえて立法権を侵害してきても法的にも倫理的にも日本国の主権者たる日本国民の殆ど全員が平気でいる様に、いまだにその神道邪教裏支配体制の機能は国政の中から少しも除去されていないのだ。しかも、日本人多数派はこの邪教支配の機能を安全装置か何かと勘違いするほど愚劣なので、彼らに治安を任せておく限り、極東どころか世界に安全が保てないのは絶対に確かな事実であろう。なぜなら、卑怯さによっていつなんなりとも、うつろいやすい風評で180度転向し、善悪をとりちがえたり混同しながら、自国内の少数派ないし諸国民に彼らの多数派が同調圧力だけの理由で、いつもの様に狂った牙をむいてくるのかわかったものではないからだ。