2023年8月25日

純愛と姦淫の文明での位置づけ

純愛は、肉体を必ずしも介しない。それは精神的愛の方が人としての理性に適い、ほかの動物にも当然の如くみられる肉体的愛には人の文明の中で原理的に、それ以下の地位しかあてがわれえないからだ。

 性愛を純愛こと非肉体的で精神的な愛の範囲に極力限定するか、さもなければ少なくとも性愛に精神的愛が必ず伴うよう自己統御することは、文明人一般にとって重大な美徳の一つである。

 性愛はそれが姦淫(不道徳な性愛や同様の性交)に近づくほど公的にあるいは自他に害をもたらす。しかしその逆に純愛に近づくほど、単なる私情をこえれば公益にこそなれ、害が減っていく。
 これらは性愛が本質的に利己性を含んだ欲求でしばしば同時に害他的でもありえるのと共に、少なくとも性愛に伴う肉体的独占度が高まりその多数化が広まるほど、有限な資源を各自が取り合っている異性愛の領域では明らかに公害をもたらすからだ。
 姦淫を度合いとして追求している人々は、この為、彼らの参加した社会に次々不条理をばらまいている。異性という資源の枯渇はねたみやうらやみ、うらみから争いごとや不和をもたらし、姦淫主義者がのさばるほどその社会一般人が安定した特定配偶者を得られづらくなり、遂には生物として必要な性的充足すら満足に得られなくなって行くからだ。こうして姦淫は文明の中で悪徳とされ、その悪習をもつ人々は社会淘汰として不利な状況に追い込まれ、或いは近親憎悪の内に自滅して行く。

 他方で純愛を追求する人々は、それが肉体的性関係(殊に性行為)を伴わず精神的愛に限定されている限り、少なくとも他者の有限な資源を不当に横領する恐れがないのであり、したがって、文明国の中では公的に必要十分、尊重されうる。
 もしその文明国の中で純愛主義者が性愛の領域で、単なる偶然を除き不運な目にあっているとすれば、それはその国が修身的乃至性道徳面で退廃しているからに過ぎないのである。またもしその国が良心にとって生存に値するほど十分に文明化されていれば、純愛主義者らがそこでは想定されるかぎり最も幸福な、彼らの人としての各々の質に調度ふさわしい、お似合いの善美なる伴侶を通例得ている事は疑う余地がないだろう。