2023年5月4日

自文化中心主義者による文化的自存権の弾圧とその存在の除去による平和維持

自文化中心主義者は、その傲慢さによって様々な人々の人生の根源的価値を恣意的偏見をこめた差別や「野蛮」「野卑」「下品」「未開」といった侮蔑表現による嫌がらせ、うぬぼれに基づく異文化の他者への活動妨害、生存権・人格権の弾圧、その他の暴力で好き放題弾圧し続けていく。このため京都人や関西人、南関東人、あるいは欧米人らは一般にその文化植民地主義的・文化帝国主義的な生態自体が公害・公悪であり、彼らの腐敗した都市文化に属さない圧倒的多数の人々にひたすら不幸をもたらすので、日頃から嫌悪・憎悪されている傾向にあるが、それは彼らが文化多様性の根源的意味を理解できないほど根っから愚かだからである。また、彼らが自己愛や無知の正当化によって、怨嗟されればされるほど、「コンプレックス」とか「憧れている」「嫉妬している」などという更なるうぬぼれに由来した卑しい言説によるますますの悪態、或いはもともと死んだ方がいいほど性悪で浅ましい心持ちに、少しも反省をしないほど性根が歪んでいるのも、彼らに根源から悪意で生きる自文化中心主義者に根っから更生の余地はないからである。もし彼らに特定の異文化の価値を認めさせても、今度は別の文化的要素へ「違和感」表明などで、彼らは別の異物排除の行動様式とそれに伴う差別を続けていく。天皇一味が中華思想や西洋の帝政・王政の猿まねによってこの様な差別的生活様態の頂点に自らを位置づけようとしてきた人種差別の邪教祖一族なのは言うまでもない。

 これらの自文化中心主義的な言説や心持ちは、そもそも異なる他者の状態への共感知能の低さに由来しており、すなわち程度として発生するもので、現実には特定の文化的偏見づけの習慣によるものではない。差別し易い人々はもともと異質な他者への認知力が低いので、自文化中心主義の特定の面を教化によって否定させたところで、今度は別の形で同じ排他的・害他的生活様態を続けたがるのである。「文化首都」と僭称して恥じる気配がない京都市の人々には一般に、平安期以来の移民社会に於ける先住文化への差別を目的とした自己優越感にみちたうぬぼれでその様なあしき性質、いわゆる「イケズ(意地悪)」さが明白にあるがゆえ、人権の到来後も差別の風習が終わることはなかったし、地域一体が人の暮らす場所としては永久滅亡しないかぎり、今後もないことだろう。

 こうして文化や風習の異質な他者を見下し、軽蔑する人々に一切の救いの余地はなく、彼ら自文化中心主義者らがその思念の傾向ごと地上から去る事によってのみ、世界には文化的自存権とそのもとの恒久平和が保たれる。